Tuesday, August 28, 2012

野田民主党政治の危険

 野田民主党がどうなのかということについて、もはや論を待たないとは思うが、一応念のため僕が思うところを述べておきたい。

 彼の政治のどこがダメなのかを端的に言うと、主権が誰にあるのかということについての認識不足、いや、誤認にあるのである。

 この国は一応民主主義制度ということになっている。だから国民に選挙権があり、選挙によって国をどう動かしていくべきなのかを決めるということになっている。先の総選挙では民主党も自民党もマニフェストという名の公約を発表し、それに基づいて国民は投票した。つまり国民はこの国の在り様を、それぞれ各政党のマニフェストを元に選択したということに他ならない。

 民主党のマニフェストがどうだったのかについてはいろいろと論があるだろう。デタラメばかり書いている各新聞などは、出来もしないことばかりを約束して国民を騙したマニフェストであり、そんなものは守れるはずが無いと。それについては異論がある。出来もしないことだったのかというとそうではない。それまでとは違う方針で国を変えていこうというものであったから抵抗は大きかった。だから実現に大きな壁はあったが、論理的に破綻しているような内容ではない。それは単に既得権益を持っている側と、既得権益から漏れていた側の攻防であって、マスメディアは既得権益を持っている側の家来のような立場でその論を張っているに過ぎない。今もあのときの民主党マニフェストは実行可能だと僕は思う。問題は、抵抗の多いその理想を押し進めていけるだけの力量を持った政治家がいるのかということだけだ。当時の民主党を引っ張っていた小沢一郎と鳩山由紀夫を表舞台から引きずり降ろしたのが現在の民主党執行部である。獅子身中の虫が、自分たちもそのマニフェストを掲げて選挙をしたにも関わらず、自分はその作成に関わっていなかったかのごとき態度で反古にしている。それが現在の野田民主党ということなのである。

 説明的な文章が続いたので、本筋に戻したい。あのマニフェストはひとつの理想であり、それの実現にはハードルがいくつもあるというのは理解できる。そのハードルを越えていこうという強い意思が政治家には必要ではあるが、百歩譲って今の執行部にはその意思にも実力にも欠けるとしよう。だから、現実を見て実現可能な政治を行なっていくのだというのが、野田政権の今の態度だ。これが根本的に良くない。彼の政権は一体誰から与えられているのか。それは民主主義における選挙制度を根本とした国民主権の考え方を是とするならば、やはり国民から与えられているのである。その主権者の意思を実現するために実務に当たるのが選ばれた政治家の役割である。だが、自民党政治との決別を選んだ国民の意思に反して自民公明との談合に走る。これは完全に主権者たる国民の意思を現場が否定しているということに他ならない。

 これを軍隊を例にして考えるとわかりやすい。軍の最高司令官(肩書きは何であろうと、とにかくトップで決定者)がある国と戦えという方針を示して戦争は起こる。戦争の是非はともかく、戦うとなれば、現場の元帥や大将や末端の歩兵まで含めて全員が戦わなければならない。それを最前線の師団長が「敵国もなかなかいいヤツらだし、俺は彼らと戦うべきではないと思う」と言って戦闘を回避したらどうだろうか。それでは戦争に確実に負ける。戦うべきではないというのであれば、職を辞して別の人に最前線を指揮してもらうべきである。

 戦争をするという例えにすると「それでも戦争は避けるべき」という頓珍漢な反論も出るかもしれない。だからもうひとつ例えてみるが、今度は緊張関係にある両国の国境での状況での例え。軍の最高司令官は「まだ外交でいろいろと和平の可能性を探っている段階だから、国境の警備を厳重にしながらも、絶対に攻撃を仕掛けてはならない」と全軍に命令している状況という例えだ。この時に最前線の師団長が「もう外交なんて面倒なことをやっても、敵国は絶対に妥協などしないですよ。このまま待っていたら相手の兵力が増すだけで、いざ戦闘に入った時に負ける可能性が高まるので、今まだこちら側有利の段階で先制攻撃をするのが得策だ」と言って勝手に戦端を開いたらどうだろうか。現場の感触としてその状況分析がいくら正しかろうと、組織としては完全に間違いである。

 要するに、この国は大きな組織であって、民主主義という理想の基に、国民全体が主権者として政治家を選び、選ばれた政治家は選挙の時の国民への約束に基づいて努力し働くのである。国民が選択した政策こそが実行されるべきであり、それと反対のことをやってはいけないのである。そういうことをしたのでは、もはや組織ではない。すなわち、この日本という国が国家で無くなるということを意味している。野田政権は、それを現在やってしまっている。司令官たる国民の命令を無視し、戦うべきで無いところで戦闘し、戦うべきところで戦闘を放棄している。だからダメなのだ。

 それでも「いや、マニフェストは実現不可能なことなんだから」というのなら、辞して他人にその職を譲らなければならない。すなわち解散総選挙だ。解散の権限は野田総理にある。それは実現不可能なことではない。辞して、その上で自ら「実現可能」なマニフェストを掲げて国民に問い、国民が「野田のいう通りだよね。前のマニフェストよりもこちらの方が国に取っていいよね」と判断すれば、また政権につけるだろう。それから思う通りの政治をすればいいのだ。

 だが、それを野田はしない。そして国民の選択とは真逆なことをする。それは民主主義の否定である。この野田総理の国家が肯定されるのであれば、実質的な戦力を有した自衛隊が、現場で勝手な判断をして暴発することも肯定されるだろう。なぜなら野田は立場上自衛隊の最高指揮官であり、最高指揮官が上司である国民の命令を無視していいのだから、野田の部下である自衛隊の全隊員が各部署で上官の命令を無視していいということにつながる。少なくとも理論上はそうだ。現実に各省庁の末端は総理大臣の政策をことごとくサボタージュしてしまっている。いつそれが防衛省の末端に起きないとも限らない。そうなってはいけないと思うから、僕は現在の民主党政権を構成しているメンバーを否定し、批判しているのである。