Friday, February 26, 2010

囚われのヒロイン



 僕等は何をして生きているのか。今やっていることは偶然か、必然か。

 そんな問いは誰もが持つだろう。自分には無限の可能性がある。そう思うからこそ、今の現実が果たして自分にとって唯一の道なのかという迷いが生じる。転職が当たり前となり、その結果社員といえども将来の確たる保証がなくなり、僕等はますます混沌とした時代に迷ってばかりの人生を余儀なくされている。

 エエところのボンボンはいいよな。だって一生苦労なんてしないでいいんだもの。

 庶民の妬みなんて所詮その程度のものだ。だがボンボンはボンボンなりに苦悩があるだろう。その道を歩むことが既定路線となり、それ以外の道を考えることさえ無駄なこととなる。そこに自由はあるのだろうか。だが、それは僕等も同じだ。その道。それは選択なのか強制なのか、あるいは単なる偶然なのか。やっぱり必然なのか。選ぶことは捨てることでもある。そして捨てることはまた、選ぶことでもある。境遇が例え違ったとしても、僕等は常に選択を余儀なくされている。そしてあらゆるものを捨てることを強制されていると言っても過言ではない。

 トヨタの社長というのはどうなんだろうか。誰もが羨む立場なのだろうか。アメリカに呼ばれていろいろと責められ、だけど完璧などを求められても困るよな。それが僕の、庶民としての普通の感覚だった。100%の安全なんてどこにもない。日本だけでも年間1万人ほどの交通事故犠牲者が生まれている。それがいやなら車なんて乗らなければいい。車が走るところを歩いたり渡ったりしなければいい。その交通事故は人災なのか天災なのか。そんな問いに明確に答えられるのはもはや神様しかいないのではないか。だからそんなことを大企業の社長であっても答えられるわけはない。社長、開き直っちゃえよ。そしてアメリカから撤退するぞと脅しちゃえよ。開き直っちゃえよ。僕はそう思っていた。

 だが、トヨタの社長は違うのだね。精一杯安全を目指して努力すると言う。そりゃそうだ。それしかないだろう。開き直るなんて選択は最初からあるわけもなく、更なる安全を、究極の安全を目指すと言う。そんなゴールは永遠に訪れないなんてわかっているくせに。

 そんな限りなく狭いゴールを狙うなんていうのは、よほどの覚悟だ。それは創業一族の社長だから出来る覚悟なのかもしれないと、ぼくはちょっと思った。そういう覚悟がなければ、日本を代表する企業を背負っていくなんてことは出来ないのかもしれない。

 ほんのさっき、バンクーバーオリンピックの女子フィギュアで浅田真央が銀メダルに輝く。その表情に笑みなどなかった。演技終了後のインタビューで彼女は号泣し、納得がいかないと言った。すすり泣きの隙き間から絞り出すように発した言葉がそれだ。すごいなあと思った。えらいなあと思った。日頃あどけないばかりの、悩みなどなさそうな屈託のなさは一体なんなんだと感じていたが、その悩みのなさはそのまま彼女の覚悟であり、覚悟を覚悟と意識さえしない宿命そのものだったのだと理解した。つまりは、それが彼女の選択であり、必然だったのだ。

 世界のトップクラスの選手というのはたくさんいる。だが、本当にそこにいることに疑問を感じない人というのはどのくらいいるのだろうか。誰とはいわないが、それで引退すると思っていながらも他人のメダルを目の当たりにして引退を撤回する者、メダルを手にして、それでもういいかなと思って次は狙わないと公言する者。引退してなおそれを撤回して復帰したりする者。いろいろいるが、それは揺れている証拠だと思う。揺れることは悪いことではない。それは普通のことだし、責められるべきではない。揺れながらも世界に挑めるポジションに到達したことだけで凄いことだし、賞賛されて然るべきだ。だが、僕はそれだけでは届かない境地というものがあると思うのだ。その届かない境地というのは、もしかしたら本当に届くことのない夢のようなものでしかなく、だから僕等のような普通の人間は、そこを目指すと口にすることさえ出来ないのである。

 だが、浅田真央はそれを口にする。実際今回も超ハイレベルな戦いに本気で挑むことを許されたのは世界にたった2人でしかなかった。そして今シーズンの調子を考えたら、その挑戦さえ無謀じゃないかと思えるような状態だった。今日のフリー前に「逆転可能」とはやし立てたマスコミも、半年前には五輪出場も黄色信号と当たり前に言っていた。だがそんな喧噪には無縁に、彼女はただひたすらにトレーニングを積んだのだろう。それは彼女にはそれしかないし、そしてなにより、勝てると本気で信じていたからである。

 僕が日頃バンドマンに言っていることは、「お前の音楽に命をかける価値はあるか」ということである。なぜなら、自分自身が自分の音楽を信じることが出来なければ、高い壁へのチャレンジなど出来るはずもない。デモを送ってきて「聴いてください、僕たちを応援してください」とは言うものの、その本人が自分の音楽を信じられるのか。それが問われるのであり、その覚悟がないようでは、第三者の協力や応援をあおぐべきではない。なぜなら、自分自身の努力を重ねられるわけもないからだ。そして努力を重ねる場合、その努力の結果として目指すべきゴールは何なのかが問われてくる。あるものはメジャーデビューと言うだろう。あるものは100万枚のセールスと言うだろう。あるものはオリンピック出場と言うだろうし、あるものは金メダルと言うだろう。そしてあるものは、100%の安全と言うだろう。たとえそれが見果てぬ夢だとしてもだ。

 浅田真央はなぜ氷の上で跳んでいるのだろうか。おそらく、大好きなお姉さんの近くにいただけのことで、知らないうちに自分も靴を履き、飛んでみたら才能を認められてしまった。始まりは仲のいい姉妹の当たり前の日常だったにすぎない。だがそこから知らないうちに世界という舞台に立つことになり、それを自分でも疑わないようになってしまった。生まれながらにしてトヨタの創業者一族に生まれたという程の必然ではないかもしれない。だが、姉に比べて明らかに抜きん出ていた才能は、それはある種生まれながらのものであるのかもしれない。それを持って生まれてこなければ、普通の女子大生として普通にオリンピックをテレビで見ていた、普通の幸せというものもあっただろうし、例えアスリートとして競技をやっていても、このオリンピックの舞台に立てただけで幸せという価値観もあっただろう。しかし、彼女の才能はその程度の満足を彼女に許すことなく、銀メダルにして笑顔なしというある種不幸な状態に追い込んでしまった。

 だが、そういうところに囚われていることというのは、本当に不幸なのだろうかとも思うのだ。道定まらずして苦悩する、多くの豊かな日本人像とはまったくかけ離れたその状態を、僕は極めて幸せなことだと羨ましくさえ思う。常人には想像だに出来ぬゴールを求めて日夜舞い踊るヒロイン。運命は辛く苦しく、4年前は年齢という壁に阻まれ、待ちに待った今日は、ジャンプ前に足を捉えた氷の凸凹に阻まれた。失敗は失敗で、結果は常に残酷で、次の4年というものが何も約束されない遠い先のことである以上、人は当然悩むに違いない。だが、おそらく彼女は悩んだりすることなく次に進んでいくだろう。悩みというのは自由な人の特権でもあり、そして常に時間を奪っていく足かせのようなものだ。自由を奪われているといえば確かにそうなのかもしれない。だからこそ、彼女の無自覚のような屈託のなさが救いであり、その結果すぐに前を向いて次の挑戦に向かってくれることを期待したい。その期待は、人間がどこまで跳べるのかということへの、跳ぶことさえできないでいる普通の人の、妬みにも似た希望のようなものでもあるような気がするのだ。