Tuesday, March 02, 2010

お金かプライドか

 またぞろ同じような話題が起きている。「なぜオリンピックで韓国が躍進し日本は金1個すら取れないのか。それはかけている予算が違うからだ。国家はもっとスポーツ振興に予算をかけるべきである。」ワイドショーをはじめ、各マスメディアのいろいろな人たちが同じようなことをワンワン言い出した。

 くだらない議論だ。

 お金をかけて競技を助成し、それで金が取れて何になる? もしそれが正しいとすれば、その金メダルはお金で買ったということにもなるだろう。お金を出さなければ取れなかったのだから。そうまでして金メダルが欲しいか? そうまでして金メダルを日本人が取る瞬間を見たいのか? 僕は見たくない。

 そもそもオリンピックを国威発揚に利用しようという意図は昔からあった。その多くは当時の東欧共産圏に顕著だった。予算に施設はもちろん、当時はドーピングも当たり前のように横行していた。ドーピングに関しては統一的に禁止になったが、予算や施設に関しては今もいくつかの国では当たり前のように投下されている。それがメダルの数に現れているという向きも少なくない。だがそれがどうした。そういう施設で予算を受けてひたすらトレーニングに励んでいる選手たちの人間は一体なんなんだと思う。それに比べると予算が少ないといわれる日本の方が、勝った時の喜びが大きいのではないだろうか。

 同様な議論は別にもある。フィギュアの採点方式は浅田真央潰し目的で変わってきていて、今回負けたのはキムヨナが優れていたからではなくてルールの偏向にあるのだという論議だ。メディアは今回の採点における起訴点の決まり方や、加点部分での開きを殊更に取り上げ、「難しいジャンプを決めたのに得点が伸びないのはおかしい」と意見する。だが、ルールは元々決まっているのだ。オリンピックの1週間前に突如発表されたというようなものではない。要素それぞれに何点を与えるのかも最初っから決まっている。その中でどういうプログラムを考えるかはそれぞれの選手、陣営が判断するもので、場合によっては選手が自身の体調や他の選手の得点などを考えて演技中に変えたりもする。その選択は最終的に選手たちによるのであって、その判断をする権利は全員平等である。勝ちたくて無難な構成にするもよし、難易度の高い技に挑むもよし。僕等はそういう判断とトレーニングによる技術を見せてもらうだけであり、あとから採点方式に口を出すのはとんでもない話だ。

 勝てない理由はいくつもあるだろう。だがそういう理由のほとんどは言い訳に過ぎない。負け犬の遠吠えと言えば言い過ぎだろうか。しかしながら最終的な理由は「自分が弱かった」か「相手が強かった」かのどちらかだ。「お金がなかった」とか「ルールが不公平だ」というのは、負けた理由になどならない、負け惜しみでしかないと思うのである。

 オリンピック開幕直前にNHKがミラクルボディーという特集を組んだ。ジャンプのアマンと、アルペンのヴィランデル、フィギュアのジュベールに密着し、その強さの理由を探るというものだ。ジュベールはまさかのミスが続き実力を発揮出来なかったけれども、アマンとヴィランデルはメダルを取った。アマンには身長が低いという不利な条件があった。そしてヴィランデルは競技中の大転倒とそこからのリハビリという不利な条件があった。しかしながらアマンは他を圧倒する飛距離で「背が低いのは不利ではない」と証明してくれたし、ヴィランデルは転倒の恐怖を克服する強い意志が成功に直結するということを証明してくれた。この番組を見て彼らの大ファンになったし、日本選手でなくとも感情移入することは出来るのだということを改めて感じたのである。どんな国の人たちも激しいプレッシャーに苛まれながらも困難にチャレンジしていく。それは浅田真央もキムヨナも同じであって、そのプレッシャーに打ち勝つ姿は常に美しい。それはどの国の代表かでもどの人種かでもなく、その人の努力の跡によるのだと思う。

 美しい戦いを沢山見せてもらった。とても楽しいオリンピックだった。その感動もやがて薄れ、1年もすると「そんなこともあったっけ」程度の話になってしまうだろう。それでいいのだと思う。すぐにサッカーワールドカップはあるし、日本シリーズもあるし、ラグビー早明戦もあれば、箱根駅伝もある。普通の視聴者にとってはスポーツってその程度のものであって、実際は大したことでもなんでもないのだ。そんな大したものでもなんでもないことで一番になるために、自らの選択でチャレンジしていくアスリートだからこそ、僕等は感動するのだと思う。僕等のような傍観者が「お金で改善しよう」なんていうのは無粋なことでしかない。