Tuesday, April 16, 2013

最近思う政治のこと

 昨年末の総選挙以降政治のことについてまったく書いていなかった。そもそもブログの数が少なかったんだけれども。  で、今の状況をどう思っているのかを簡単に書きたい。今の政治状況は、閉塞感をどう打破するのかということに対するひとつの答えだと思っている。閉塞感が続くことが不況なのであり、不況はなんとか打破しなければいけない。それは僕も同じ考えだ。しかし打破するやり方というものは個別検討されるべきであり、今の状況はやはり危ういという気がしている。  閉塞感を打破する為にいろいろなことをぶち上げている。自民が政権を奪還し、アベノミクスという造語が飛び交って、さもいろいろなことが改善しているように見える。だが、これは見えているだけなのだ。いや結果として株価は上がっているだろう、円は安くなっているだろうと言う人も多いだろう。だが、じゃあなにをやったのかということが見えていないのだ。僕が見えていないだけなのか?僕の目が節穴なだけなのか?そうなのであれば喜ばしいことだ。だが日銀の首をすげ替えて金融緩和を大胆に行ない、経済界にニラミを利かせて一部の給与上昇を実現させた。ではその企業は売上がアップしたのだろうか。アップはしていない。それなのになぜ給与を上げて政府に協力をしたのか。正確なことは闇の中だろうが、協力をすることでなにか良いことがあるのだ。そうでなければ、協力をしないことでとんでもない悪いことを仕掛けられるのかもしれない。  アベノミクスとは何処から来た言葉なのだろうか。レーガノミクスを彷彿とさせる造語で、エコノミクスとアベを組み合わせたものだという説明はもういい。そんなことは判っている。だがそれが数年前から既にあった言葉ではなくて、安倍政権誕生とともにどこからともなく降ってきたように人口に膾炙し始めた。誰が考え、何故広められたのかということである。おそらく電通などが考え、巨大メディアで一斉に使われ始めたのだろう。そうでなければこんなに短期間に広がったりしない。つまり、意図的にその言葉は世の中に送り込まれたのである。ということは、送り込むことで何らかの効果を期待し、その効果で自分も得をするという人たちがいるということだろう。  それが、この国の支配層なんだと考えている。  江戸時代には士農工商という身分制度があった。自由平等の社会になり、そんなものはとうに無くなったと思っていた。しかし、世襲によって身分が固定されることが無くなっただけのことで、世の中にはリーダーと指示に従う人が一定の割合バランスで存在しなければならない。被差別階級も昔はあって、何故そんなものがあるのかというと、被差別階級の最下層にいる人たちのプライドの問題なのだろうと考える。そこが「まだ下がいる」と思うことによって社会の治安はかろうじて保たれる。そんなことのために被差別を受けなきゃいけない人はたまったもんじゃないが。で、今のこの瞬間にも士農工商でいう士のポジションもあるし、農も工も商もある。そこにそれぞれがポジションを持って生活をしている。士は自分のポジションを保つ為に一生懸命だし、そのポジションを正当化してくれる社会制度を維持することに懸命だ。アベノミクスはそのために出てきた造語だと僕は思っている。発している人も伝播している人も、安倍という人の人気を高めて政治的安定を与え、その安倍という人が与える地位や禄をより確かなものにしようとしている。末端の人たちがなんとなく生活がよくなるような雰囲気を醸し出す。あくまで醸し出すだけなのだが。  醸し出しているうちに次の手を考えよう。この国は資源を持たず、エネルギーも食糧も輸入に頼らざるを得ない。だとすればそれを買う為のお金が必要だ。その金はどうするのか。輸出しかない。輸出することで得た金を使って様々な物資を買うのだ。ではその輸出産業はどうなのか。残念ながら現状の見通しはついていない。大手企業の散々な有様には目を覆うばかりだ。しかしながら景気は回復する。そんなことがあるのか?ある。バブルだ。実体経済とはかけ離れたマネーゲームでの繁栄をバブルという。それはこの20年でさんざん学んだことじゃないのか。でも残念ながらその方向にまた進みつつあると感じて仕方が無い。マネーゲームそのものが悪いわけではない。市場は必要だし、そこで活躍するプレイヤーというものも必要なのだ。ユダヤ人は代々そういう役回りをしてきた。マネーゲームで富を得た。だがこの半世紀ほどのマネーゲームは度を越し、さらには昔ながらそういうことをやってきた人たち以外もそのゲームに参入してくる。さらには1人で占める富の量がハンパ無くなってきた。その結果どうなるかというと、市場以外の人も巻き添えになるということだし、その規模が膨張して個人レベルから企業レベル、そして国家レベルでマネーゲームに参入することになるのだ。  しかし、マネーゲームは博打である。勝つ人と負ける人が必ず出てくる。勝っている間は夢を見られるが、負けたらどん底だ。それを国家がやり始めたらどうなるのか。それはおとっつあんが博打場に入り浸り、勝っている間は家族にお金を持ってくるけれども、負けたら娘が借金の形に売られてしまうと、そんなことになるのではないか。それがいやだからおっかさんがおとっつあんに「もう博打は辞めてくれよ」と懇願する。でも博打にのめり込んだおとっつあんが辞められるものか。今の日本ではおとっつあんが政府である。国民はそれをどうやれば止めることが出来るのだろうか。多分無理だ。選挙で冷や水を浴びせなければそれは無理なのだ。だが士のポジションを維持したい政府とメディアが一緒になってアベノミクスを素晴らしいものと喧伝する。あと半年もせずにその選挙だ。前回の総選挙で非自民勢力を分断した維新の会が、今度は与党のダメな部分をすべて背負って瓦解するだろう。メディアの注目はまたすべてそこに向かい、本当の意味での非自民を結集させることを阻止するだろう。そうして自民の博打は続いていく。と、思う。  こうなったら自民の博打が未来永劫勝ち続けることを期待するしか無いのだろうが、そうもいかない。いつかは負ける。その時には何が起きるのか。開き直りだ。そして敵を外部に作り、国民の不満の視線を逸らそうとするだろう。つまりそれは戦争だ。戦争によって政府批判など出来ない雰囲気が醸成され、これまでの約束事がすべて反故になり、軍事産業が盛上がる。それはすべて支配層の産業であり、市民の産業はことごとくそのための犠牲になるだろう。これまでの歴史が証明し続けてきたことだ。なぜ戦争が無くならないのか。それは人間の作った社会やルールは完全ではなく、必ずどこかにほころびが生じて、それをうやむやにする必要が出てくるからなのだと思う。  戦後もう何十年たったのだろうか。この社会はかなり成熟し、硬直してきている。人間ならば動脈硬化しきっているというところだろう。そのツケをどうにかして払わなければならない。そんな時期にさしかかってきているように、漠然と感じているのだ。