Monday, January 14, 2013

東京

 東京に行ってきた。

 その前に行ったのは、友人が突然死んで、そのお葬式のため。いいヤツだったけど、死んじゃしようがない。重要だけど虚しい東京行きだった。でも今回はなかなかに楽しい東京だったよ。ビクター時代の後輩とメシ、大学時代の親友たちと同窓会で飲み会、高校時代の友達とメシ。その他に僕の友人両横綱とは結構密な時間を過ごした。一人きりになる時間なんてほとんど無かった。

 京都に移り住んでも、TwitterやFacebookで友達とは連絡取れるしそんなに寂しい思いをすることはほとんどない。それは事実だ。でもネット上でコミュニケーションをするのと実際に会うのではやはり違うね。違うからといって、これからまた会えない日々が続くことを寂しいことだとはまったく思わないんだけれど、でも両方が同じだとは思わない。あれもあって、これもあって、それでいいんだろう。東京にいた頃にもそんなに毎日のように友達に会っていたわけじゃないし。

 京都の生活に慣れたかとか、京都はどうだとか、いろいろと尋ねられる。京都永住のつもりかとも聞かれる。でもね、そんなことはあまり考えてないのですよ。どっちにするかなんて。それは東京に26年住んで、自分の人生の中では一番長くいた場所なのに、京都に移ってから第二の故郷的な場所として意識するかと思っていたら、そんなことはまったくなくて、生まれ故郷の福岡に対する気持ちと、東京に対する気持ちはまるで違う。流れ者が長いこと東京にいてしまったなと、だから東京を離れても、またそこに戻ろうとか思わないし、でも決別したというような強い拒否反応もないし。

 同様に、京都の暮らしを今は満喫しているけれども、そこに永住するとまではまったく考えていないし、それはそのうちに京都を離れるつもりでいるということでもなくて、だから、いつまでっていわれても、3年後に学校を卒業するぞというような、予定を考えるようなことはまったく考えていないということ。動くかもしれないし、ずっといるかもしれないし。そういう、流れ者がたまたまそこにいて、いつまでと期限を切ってもいないという、そんな感じ。

 だから今日も気軽に東京を離れた。センチメンタルな感傷も無く、そこはただ26年住んだ街であって、それ以上でもそれ以下でもないというような。

 でもまあ、こんなことを書いているということ自体が、多少のセンチメンタリズムがあるということなんだろうか。そんなつもりはさらさら無いんだけれども。ただ、友との別れ際にポーンと肩を叩かれたりすると、なんか勝手に自己都合で東京を離れて悪かったかなというような、そんな気持ちにはなるよ。東京は、そういう感じで僕を思ってくれる友達がたくさん住んでいる街、そんな感じだ。だからやっぱり特別だし、ついついまた来るよなんて気持ちにもなる。それがいずれまた住もうというようなことにはなかなかつながらないんだけれども。