Saturday, January 19, 2013

家族の在り方

 近くの大学がやっているトットクラブというのに家族で参加した。子育て家族が集まって、子供との楽しみ方を学ぶみたいな、そんな会だ。子供とどんな遊びをするのかを参加家族が紹介したりした。他の家では僕がまったく知らない歌遊びなどをしているんだと知って、とても参考になった。うちは「高い高い」などをやっていると言ったが、謎のテキトー歌を即興で作って歌ってあげているなんてことは口が裂けても言えなかったよ。

 その会の帰りに、奥さんが「お母さんは行くところが限られているから、こういう会に積極的に参加するの」と言った。なるほど、そうなのか。平日は外に仕事に行っている身からすると、それもまったく知らない母親の心理だなあと参考になった。比較的子育てに参加しているつもりではいるが、父親の思っていることと、母親の思っていることは、やはり大きな差があるんだ。

 Twitterなどでいろいろな人の話を目にする。母親をやっている人のつぶやきもよく目にする。旦那への愚痴とか、子供への不満とか、ママ友やPTAのこととか、いろいろだ。先日も旦那が家事へどう関わるのかについて不満というか、愚痴というか、諦めのようなつぶやきを見た。じゃあなんでそんな人と結婚したのだろう、今も一緒に暮らしているんだろうと、その時は思うが、では夫婦が完全に一致して日々が過ごされているのかというと、そうでもないだろう。いや、ほぼすべての場合で一致などしないのだろう。だって人間はどんなに判りあったとしても結局は他人だ。いや、他人ではないな。家族であっても別人格というのが正しいだろう。父親と母親で行動パターンが違うのは当然だし、日々の行動が違えばインプットされる情報も違う。違う情報が入っていて考えが完全に一致するなんてことは有り得ない。少なくとも僕はそう思う。

 そう考えていた今日の夕方、僕は家事の手伝いをしていた。ウチでは家事の特定の仕事は僕の役目だ。役目というと重荷のようなイメージがつくだろうが、そうではない。その作業は僕の方が得意だから、僕がやっているというだけのこと。もしかしたら僕の方が得意なんだからと思い込んでいるだけで、思い込まされているだけで、だから結局は僕がうまく操縦されているのかもしれないが、まあそうだったとして何だと言うのだ。僕はそれなりに「僕がやらなきゃ」という使命感を持って、今日も淡々とその家事作業を、割と嬉々としてこなしているのである。

 思えば、結婚してからその作業を僕がやるようになるまでにもいろんな変遷はあった。具体的にどうだったのかはもう忘れたが、まったく別の生活をしていた2人が一緒に暮らすようになって、それなりにお互いが役割分担をして、それなりに個人の領域を確保し、それでも楽しい生活を模索して、今がある。今が完成形では無いと思うし、それは7ヶ月前の長男の誕生を機に、僕ら家族の生活もいろいろと変化を余儀なくされているわけで、だからこれからももっともっと変わっていくだろう。その変化は自ら変わっていくというのとはちょっと違って、子供の成長が家庭を変えていくという、ある意味変化させられているということではある。が、今のところそういう変化が僕らの生活に否応無しに訪れることを、僕は素直に楽しんでいる。結婚生活の過程で起こってきた変化も、僕は楽しんできたつもりだ。楽しめる範囲での変化というのが、夫婦の相性というものなのかもしれない。あまりに違う2人の生活に起こる変化はものすごいものになるだろうし、それが本当にものすごかったら、耐えていけないものなのだろうから。

 少し遡って今年の正月、大学時代の同級生が遊びに来て、6ヶ月半の長男を抱っこしてもらった。それから10日後の同窓会で彼は「この間大島のところの子供を抱っこさせてもらったんだけれど、可愛いんだよね。ちょっと子供が欲しくなっちゃった」と話していた。まだ独身の彼が子供を持つには、普通に考えればまず結婚することが必要だろうし、結婚にしても同じ歳の女性と結婚するのであれば出産はかなり非現実的なことになる。だが、まったく不可能ではない。10歳以上歳の離れた人と出会って結婚すればいい。まあ結婚することを目的に婚活するのと、子供が欲しくて婚活するのではまったく違うし、成果も違ってくるだろうなとは思う。子供が欲しいことを最大の目的にされても、女性としては「なんだよ出産マシンなのかよ」という気分になるだろうし、それでは前提となる結婚生活での意見の一致も難しいような気がする。相手も同様に子供のことを最大の目的として、種馬としての旦那を探しているのであればいいのだろうが、それだと生まれてからもお金を稼ぐマシンとしてのみ利用されるだけのような気がする。挙句に離婚して親権を持っていかれたら目も当てられない。まあ、そんなこんなは派生する妄想に過ぎないし、同級生には頑張ってもらいたいとして。

 今日の会で、担当者の先生が面白いことを言っていた。子供はここに生まれてくる役割をもって生まれてきたと。だから生まれる前から知っていることもたくさんあって、そんなことを知らないと思っていることをなぜか知っていることがあると。なんでそんなことを知ってるのと尋ねても、そんなん生まれる前から知ってるよと子供は平然と答えることがよくあるのだと。その話を聞いて、なんか不思議と腑に落ちる気がした。僕はスピリチュアルなことなどほとんど信じていないのだが、子供が産まれて来たとき、やはりこの子はここに生まれてこようとしていたんじゃないかと感じたのだ。つまり、魂というものがあって、生まれる前の長男の魂はずっと前からその辺を浮遊していて、僕と奥さんの間に生まれてやろうと虎視眈々と狙っていて、彼によって僕らは引き合わされ、結婚することになり、京都に引越しをさせられて、そしてようやく準備が整ったなしめしめと、長男は狙い通りに僕らの間に誕生してきた、そう感じるのだ。だから、僕らが出会ったのも結婚したのも、抗い難い力にそうさせられたんじゃないかという、そんな思いなのである。そんなことを言うと、子供のいない夫婦はどうなるんだとか怒られそうだが、まあ妄想だから気にしないでくださいとしか言い様が無いので無視するとして、少なくとも僕ら夫婦はそんな風に感じている。だから同級生にもそういう力が働いていたらある日突然そういう流れに飲まれるように子供が授かるかもしれないし、だから焦らず騒がずに、取り合えず婚活しろよと、まあそんな風に思ったりしている。けっして遅くないぞ。僕だって40過ぎで結婚して、47で父親だ。そもそも僕が結婚するという話を聞いたとき、近しい友人ほど驚いていたじゃないか。何が起こるか判らないのが人生ってものだ。

 話は長くなり、何の結論も出やしないのだが、まあ、そんな感じです。今も奥さんは長男を寝かしつけてて、その間だけ僕もヒマなのでこんなことを書いてみました。もうすぐ長男も熟睡するだろうし、そしたらまた夫婦の会話の時間です。文章としてのまとまりより、夫婦の会話の方が断然重要なので、たいした推敲もせずに、この辺で終わりにします。