Wednesday, November 19, 2008

天空快レコーディング

 17日(月)の夜23時から、新宿のライブハウスでシングル用のレコーディング。先月末に急遽リリースが決まったという天空快のシングルだったが、彼らの対応能力が素晴らしいからか、テキパキと録音の準備が可能になったのだった。
 
 実は天空快、昨年半ばにアルバム『小松菜』をリリースしてからここまで1年半もリリースを行っていない。昨年はやったツアーも今年はやっていないし、もしかすると「もう天空快は活動を停止したのでは」と思っている人もいるかもしれないが、そう思われても仕方なかったのかもしれない。しかし、これまでのレコーディングとは違った完成度を目指すために、僕を含めたチーム天空快で、徹底した曲作りの作業を重ねていたのだった。
 
 具体的には彼が曲を作ってくる。そして定期的にキラキラレコードにやって来てはギター弾き語りの形で披露してくれて、それについてかなりのダメ出しをするという作業の繰り返し。これで何曲もボツになったし、原形をとどめないような修正変更をしてきた曲もある。というかほとんどがそうだ。芸術とはそういう合議で創られるものでは本来無いのかもしれない。だが、1人で創っていたのでは自己満足に陥る可能性だってある。だから客観的な意見を聞きながら、最終的には最も素晴らしい形を求めていくというのが、現在やっている作業なのだ。
 
 合議で創るのがダメなのは、意見を言うことで衝突が起き、その衝突を避けるために意見を引いてしまったり、誰も褒めなければ誰も貶さないという作品が出来てしまったりするからである。これを避けるためには、ストレートに意見を言い、それを真っ正面から受け止めるという、参加者の心の通じ方が必要だ。そういう関係をバンドとレーベルが持つというのは実はなかなか難しいことだと思う。レーベルが上から目線で命令口調をしているようではダメだし、逆にバンドマンが過剰に「アーチスト性」を振り回してしまってもダメだ。双方が意見を聞き合う気概がなければダメで、それは要するにお互いの信頼関係が必要だということなのである。それを天空快と持つことが出来たということも、キラキラレコードとしては何よりの財産だなあと思う。
 
 
 今回レコーディングした中に、「三月の下校」という歌がある。これ、内容は詳しくいわないが、僕の中ではとても高い価値のある作品だと思っている曲だ。その価値とは、後悔しない人生ということ。僕らは人生を生きている。もしかしたらああいう人生もあったのではないかとか、他人のそれを羨ましく思うことだってある。では、もしも人生をやり直すことが出来たとすると、その時に自分はどうすればいいのかと考えたりすることは誰にもあるだろう。その時に「今の人生をもう一度」と言える人は、とても幸せな人だ。なぜなら繰り返してもいいほどの素晴らしい境遇にあるからだ。
 
 最近プロ野球選手がFA宣言をたくさんしているけれども、引退同然のところを中日に拾ってもらったにもかかわらずFAしようとするバカは論外だが、ハマの番長がFAをして「他の球団の意見も聞いてみたいし、その最後のチャンスなんだ」といっている映像を見て、ああ、この人は横浜での野球人生が決して幸せではなかったんだろうなあと可哀相になった。
 
 別の可能性、別の人生、別の幸せ。人は現状に至るまでにいろいろな選択をし、そしてその選択の結果今がある。だから単純にキーワードだけを替えたところで別の人生に成り切れるわけではない。しかし、それでも別のものに可能性を見出したいという行為は、要するに現状に不満があるからだ。だからといってハマの番長を卑下しようとは思わない。どんな人にも現状に100%の満足をするなんてことは難しいことだからだ。
 
 そういう現状を見るにつけ、この『三月の下校』という歌には、完全な幸せというものがあるんだなあ、だからこの歌を聴いているととても幸せな気持ちになれるんだなあと、そう思うのだ。
 
 僕は一体どうなんだろうか? そんなに売れまくっているわけではないけれども、キラキラレコードをやっているという人生にはとても満足しているし、20年前に戻ることが出来たとしても、またこの仕事をやってみたいなとか思っている。もちろん現在得たいろいろな経験やノウハウを持って20年前に戻れれば、もっと成功することは間違いないだろう。しかしもしもそういう知識や経験も白紙になるのだとしても、またやってみて悔いはない仕事だと思ったりする。たとえ月曜の深夜にレコーディングしていて、季節外れの蚊に何カ所も刺されて痒かったとしてもだ。