Monday, June 08, 2009

ルール

 僕たちはルールの中で生きている。ルールがなかったら誰も信じられなくなるだろう。

 先週、足利事件の犯人とされていた人が、その根拠だったDNA判定が間違っていたということで再鑑定されて、その結果釈放された。いいことだと思う。だが、それはいいことでもなんでもなく、本来はそうあるべきだった状態に戻ったというだけのことであって、冤罪で逮捕されていたことが不幸なのであって、その不幸が(部分的に)解消されたということが、いいことだったなあと思うのである。

 これを受けて、いろいろなことが起こっている。まずその人がたくさんテレビに出ている。しかしマスコミっていうのは手のひら返しがうまいなあと思う。つい最近まで犯人でしょうって感じで取り扱っていたのが、出てきたとなったらスタジオに呼んで、「警察も検察も裁判所も許せないですよね」って迎合する。何だろうと思う。

 だが、この迎合、節操のなさも時には見習う必要があるのかもなと思ったりしたのだ。

 今回の問題、警察はどうだったのか、検察はどうだったのか、そして裁判所はどうだったのか、そういうことについて検証されなければならないだろう。しかし、その検証が過度な、というより犯人探しになってはいけないと思う。なぜなら、それがルールとなってしまったら、そういう仕事をしない方がいいということになってしまうからである。

 人間がやることは必ず間違いを起こす。しかしそれを恐れていたのでは進歩などない。不幸にも間違いは起こるものだと覚悟しなければいけない。その上で我々は前進しなければいけないのだと思うのである。例えていえば、近年産婦人科医になる人が減少しているという。多くはないものの一定の割合で起こる事故。その理由は人為的なミスもあるだろうし、人為的というより避けられない事故などもあるだろう。いずれであってもある割合で起こることの責任が医者本人に問われるということが一般的となり、それでその訴訟リスクを考えて、産婦人科医を敬遠する傾向が強いという。そうなると子供を産むための社会的インフラにほころびが出てくるわけであって、少子化が懸念されている現代において、その状況は社会的に対策が必要になるということだと思うのだ。

 つまり、そういう訴訟リスクを医者個人に負わせるのではなくて、社会として引き受ける必要がある。現在のような状況の中で産婦人科医を選択する人は、純粋に志があるといえるだろう。もちろん医者は高給取りの職業だという部分はあるだろうが、同時に社会的な貢献度も高いともいえる。社会全体の大きな問題でもある少子高齢化を解消するためにやらなければいけないことは沢山あるけれども、この問題も軽視できない問題だろう。だとすると、その部分を解決することはこの国のルール作りと大きな関係があるといえるのである。

 一方で、不幸にも出産時の事故に遭遇する例もあり、割合からすると少ないという一般論とは別に、まさに事故に遭遇した人にとってはそれが100%なのであり、その落胆や憤りも当然である。医者が憎いと思ったとしても不思議ではない。それに対して国がどうするのかが問われるのである。そういう事故に出会うのは、医者にとっても親にとっても不幸そのものだ。その不幸の可能性があるのであれば、やめておこうと思っても不思議はないのに、その不幸の可能性を超えた喜びとか、使命感とか、そういうもので人は頑張ろうと思うわけで、そういう気持ちに対して国がどう応えるのか、それによって国は全体的に動いていくんだろうと思うのである。

 今回の冤罪事件。今の技術水準でいえば当時のDNA鑑定の精度は低いのだろうが、当時は先進の技術であったことは間違いなく、これに賭けようとした気持ちがあっても不思議ではない。コンピューターなんかも18年前の製品は今の携帯電話よりも圧倒的にショボい機能しかなかったが、それでも当時の広告などを見てみると、これで夢が叶うとか、時代を先取りとか、いろいろなコピーが踊っていた。僕らもそんな、いま見るとショボい機能のパソコンに100万以上払ったりしていた。技術の進歩というのはそういうものであり、今の技術だって、10年後にみたらとんでもなく原始的なものといわれることも多いだろう。そのことを持って当時の警察を責めるのはちょっと違うように思うのだ。

 僕らはルールの中で生きている。だからそのルールは誰にとっても公平でなければならないと思う。しかし時に不幸の中に落ち込んでしまうこともあり、だから、それに対しての考慮がされるべきで、そういったことが出来るのはそこに関わる個人ではなく、最終的には国ということなのだろうと思うのだ。つまり、その機能が国にとって必要じゃないことについては、個人個人の自己責任でいくべきだが、医療とか、司法とか、捜査機関とか、そういったものはすべて国の根幹に関わる機能であり、だとしたらそれに関わる人たちの努力を支えるような仕組み、そしてその仕組みに従って生きる人が遭遇する不幸な事例に対する補償というものも、併せて国がどう対処するのかということが問われているのではないだろうか。

 今回の冤罪事件でいえば、まず、犯人にさせられた人の人生を台無しにしていることは間違いないのであり、だとしたら、それをどう補償することが出来るのかということを考えるべきだろう。もちろん心理的な不満を解消する方法は個々の感じ方次第だったりするので、一般論として明確なルールを創るのは難しいだろうが、基本となる補償のための予算くらいは十分に確保して欲しいし、その中で冤罪被害者が「仕方ない」けれど納得できるような対処をしてもらいたい。そして、今回の警察担当者、検察担当者、裁判官などは隠れることなく、何故今回のような不幸な出来事が起きたのかを考えるためのプロジェクトチームを組んで、その中で被害者と一緒に「どうしたらもっといい社会やルールを作れるのかを検討していって欲しい。そういうことをしなければ、同じ過ちはどんどん繰り返されるんじゃないかと危惧するのだ。

 なんか、書いていてまとまりがないなと思ってきた。目指す着地点がどこなのかも、そこに辿り着くのかも怪しくなってきたので、この辺にしたいと思うが、要するに、こういうことなのだ。今回の出来事に対してマスコミはエキセントリックに「冤罪被害者=正義/警察・検察・裁判所=悪」という図式を作ったりしているが、そうではないと思う。そしてそういう図式を正しいと声高に叫んでいる限り、「悪」はますます口を閉ざすだろうし、捜査は密室化していくのではないかと思う。さらには、捜査そのものをしようという気風が失われ、僕らの住む社会の治安は悪くなっていくような、そんな気がするということなのだ。だからそういうことにならないようなルールを全員で作っていく必要があるし、もしもそういうルールが出来た時も、関係する人たちは自分の立場や主張だけを守ろうとするのではなく、相手のことも考え、不幸なことは不幸だと素直に思える気持ちをもって事に当たる必要があるだろう。そんなことを考えたのだ。