Monday, May 25, 2009

消されたヘッドライン


 ラッセルクロウ主演のクライムサスペンス。クライムサスペンスは普通警察組織が犯人を追うのだが、この作品は新聞記者が真実を追うスタイルで、時に警察とも対立したりするし、取材対象の巨悪が新聞社のオーナーだったりして、思うに任せない追跡環境の中、独自の経験と嗅覚で追いつめていくというところが興味深いところだ。

 全体的に隙がなく、詰まった映画という印象。それは天使と悪魔(後日触れます)のような過度にストーリーを詰め込み過ぎたという意味ではなく、息をつかせぬという意味で、詰まった映画という好印象である。とても面白かった。だが、それだけでは単なる謎解きになるだろう。そうならずに観られたのは、人間模様も十二分に描かれていたからではないだろうか。その中でも僕が面白いなと思ったのは新米女性記者デラフライの成長の過程だ。ウェブ版にコラムを書いていただけの彼女は、コラムのネタが欲しくてカルに話しかけるが、あっさりとかわされてしまう。そのため取材に基づかないコラムを書いてしまい、それが元でカルは彼女に取材を強いるようになる。この過程でカルは彼女を振り回すのだが、勝ち気で野心があるデラとしてはそのやり方が面白くないのだろう、反発をしていく訳だが、カルは意にも介さずに自分のやり方を押し通していく。だがそれはそうする以外にはないギリギリの取材であり、そのことにデラも気付いていく。その過程がとても面白いのだ。

 大手新聞社の社員というのは、一般的に見ればエリートそのものだ。だがこのエリートというものは困ったもので、仕事の結果でエリートになったのであればいいのだろうが、そのポジションがエリートであることが確立したところに就職した人は、中身がまるで出来ていないにも関わらずエリートという立場を享受してしまう。それが勘違いにもなるし、誤った個人主義にも陥る元になる。誤った個人主義というのは社内立身出世につながり、仕事は自分のためという感覚になりやすい。本来はいい仕事をして、結果として自分の評価につながるのだが、自分の評価を目指して仕事をするようになると、他人のいい仕事の上に自分のポイントを稼ぐようになる。僕も実際短い会社勤めの間にそういう体験をしたことがある。先輩が僕の努力でようやくセッティングできたミーティングに出て、いいところを全部持っていかれたことがある。その時はとても悔しい思いをしたのだが、その思いは自分もそういう誤った個人主義に陥ろうとしていたんだなという反省を今ではするが、同時に現在の自分の立場からすると、どちらかというと先輩という立場に立つべきであり、その立場で正しい仕事、そして部下の育成に当たってはどのような態度を取るべきかということについて、教えられるような気がしたのだ。それはつまり、自分だけでは大きな仕事をすることは出来ず、そのためにチームがあるということをきちんと理解するならば、立場が上とか下とかいうことはどうでもいいことで、すべてのチームメイトが能力を発揮できるような環境を整備することが、先輩や上司という立場にある人間にとって大切なのである。

 この映画で問題となっている事件を追及するための取材チームが組まれるわけだが、そこに招集されているのは、見た目だけではとてもエリートとは思えない人間たちばかりで、一種落ちこぼれ集団のような印象なのだが、それぞれがいい仕事をこなしていく。でもそれが本当のエリートというものなんじゃないかとか思ったし、そういう仕事師にデラフライは育てられようとしているのだなということもちょっとだけ思った。いやそれはあくまで結果としてそうなるというだけのものでしかないのだろうけれども。