Thursday, June 25, 2009

個人と組織

 つい先日、僕の棚から川本真琴のデビューアルバムが発掘された。名盤である。少なくとも僕はそう思う。川本真琴という人はこのアルバムでの商業的成功とは裏腹に、その後どんどん商業的な動きから遠ざかる。2枚目、3枚目。よくいえばアバンギャルドで反骨的、悪く、というより普通にいえばポップ感を失った自己満足的な内容になっていき、音楽シーンの中央から消えていった。こうなってしまうと忘れられるだけなのが当たり前だが、彼女の根強いファンは今でも存在する。僕もその一人だ。他の人の理由がどうかは知らないが、僕に関していえば、やはり彼女のファーストには衝撃を受けたし、才能ある人だと強く感じたからだ。その才能の行方を見てみたいと思うのは一種の好奇心だ。それが輝きを増したとしても、失ったとしても。

 同じように才能を感じたアーチストといえば、やはり椎名林檎を外すわけにはいかない。その椎名林檎の6年ぶりの新作がリリース。さっそく聴いてみた。




 結論から言うと、人生ドラマを見ているようである。その後の状況は川本真琴の現状とはかなり違ったことになっていて、全国紙の新聞にも広告が出て、山手線の駅にも巨大なポスターが貼られまくっている。このCDにレコード会社は相当賭けているのだろう。賭ける対象となっている椎名林檎、3年前の新作がインディーズからのリリースとなっている川本真琴。この違いは一体なんなんだろうか。これを人生と言わずしてなんとすればいいのだろうかと思わずにはいられない。

 もっと内容について。椎名林檎の今回のアルバムは、ファーストとはまったく違ったものである。それはセカンド、サードもファーストとは違っていたが、その違い方がまた別種類のものとして形になっている。椎名林檎は椎名林檎名義での活動を一時期封印し、東京事変というバンド活動をしていた。それを聴いていると、椎名林檎は自分というものを押さえることで自分のポジションを得ようとしていたように思うのだ。それは、ファーストで大人の意見を取り入れて成功したのはいいけれど、それが自分なのかという葛藤が、セカンドとサードには現れたのだろうと見ている。自由にやれる権利を手に入れた。お願いだから新作を発表してと大人に言われる。だからやってみた。それは自分を表現するという試みであるにもかかわらず、ファーストで生まれた一般からの先入観を払拭しなければいけないという思いが、その自由な表現であるべき発表の場を不必要に歪めてしまった。振り子の原理で、一方に強く振れたものは逆に振れる以外にはない。その結果、過激に個性のエッセンスだけが増幅され、結果的にファーストの再現を期待した人はもちろん裏切り、本当の自分を出したいと思う自分さえ裏切ったといえるだろう。ここまでは椎名林檎も川本真琴も同じだ。ファーストの呪縛からどう逃れるのか。才能ある人だけしか直面しない悩みに対する、答えである。

 だが、そこからが大きく変わる。椎名林檎の新作を一言でいえば、まるでオペラであり、ミュージカルである。音しかないこの楽曲の連続からは、容易に映像が浮かんでくる。その映像はまさにオペラなのだ。タイトルは『三文ゴシップ』。だが一般的には三文とくればオペラと続く。このアルバムは椎名林檎によるオペラの再現だ。サウンドがとにかくゴージャス。そのゴージャスさはどこから来るのか。東京事変で築いた人間関係。取り囲むミュージシャンたちは一癖も二癖もある人たちだし、アイディアの固まりだ。アイディアは、時に残酷である。けっして椎名林檎の才能をつぶそうなんて思ってはいないはずだ。だが、そのアイディアの羅列は、まとまりを失う。僕はこのアルバムを聴いていて、妥協しか生まない無駄な会議を想起した。だれもがよかれと思ってアイディアを出す。出した人の気持ちを尊重すれば無下に却下するのも気が引ける。だから、出てくるアイディアを少しずつ拾う。その会議は丸く収まるのだろう。メンバーは満足する結果になるのだろう。だが妥協の産物に筋が通ることは少なく、思想の無い決定しか残らない。ワンマン社長の鶴の一声で進んでいくプロジェクトは独善的だが思想に満ちている。だから革新的な成果を生む可能性も高い。もちろんそれはワンマン社長に先見性と才能が備わっていての話ではあるが。椎名林檎は才能ある人なのか。それが問われる。だが、いかに才能があっても、結果が出なければ意味が無い。様々なアイディアを飲み込むような合議制で作品を作るのであれば、才能は妥協に取って代わられる。今回のアルバムは、僕の感想としては、優れているが、尖っていない。もどかしい思いが鬱積するし、ファーストで感じた才というのは単に自分の誤解でしかなかったのかという気さえしてくる。

 一方の川本真琴はというと、大きな音楽ビジネスからは離れてしまった。3年ほど前に川本真琴名義での活動を終了するという宣言をし、ミホミホマコトというユニットをやったり、タイガーフェイクファという名前でのリリースをした。



僕は先日棚からファーストアルバムを発見したあと、ネットでちょっと調べてその活動を知り、amazonで3曲入り(カラオケを含めて4曲)のCDを購入した。まあ、自由だ。音質がどうとかプロジェクトとしての完成度とか、そんな御託がすべて無駄だというべき、次元の違った自由さ。3曲目などはライブ音源で、「オリジナルの歌詞とは違う部分があります」なんて注意書きがわざわざ添えられている。そんなんでいいのか川本よと思ったりもするが、ジャケットの中におさめられている彼女のニュートラルな笑顔が、そんな思いを吹き飛ばしてくれる。ファーストのジャケットは何に不満があるのだと突っ込みたくなるような拗ねた表情だったのに対して、この人はどうしてこんなに屈託の無い笑顔をカメラの前で振りまけるんだというくらいの笑顔を見せているのだ。僕はこのCDに音楽的な成功を感じない。だが、自由がそこにはある。アーチストにとっての音楽的成功とスタッフとしての成功はまったく違ったものであり、アーチストが追い求めるものがそこにあるのなら、それは成功失敗に関わらず、幸せな事象だと思うのである。

 アーチストに関わらず、人はその時々において価値観が変わる。昨日持っていないものを今日手に入れたとしたら、それを欲しいのだと思う気持ちは明日には失せる。価値観とは持たざるものへの欲求の一種である。そして何かを手に入れるということは同時に何かを失うということでもあり、失った瞬間にその価値に気付くということも往々にしてあって、だから、状況が変化した瞬間に自分が何を手に入れて、何をまだ手に入れていなくて、一体何を失ったのかということを人は日々時々に応じて考えて感じるわけで、それを音楽表現を通じて僕らは理解することが出来るのではないかと思うケースが稀にあって、だからこの2人の活動というものは興味深いのだなあと思うのである。

 今回の新作を聴いて、椎名林檎は自分だけが主役であるということに価値を持たないのだなあと思った。人間は一人で出来ることと組織として出来ることがあって、それは両方ともそれなりの意味というものがあり、優劣というもので量ることは出来ない。僕はビクターというメジャーレーベルを離れてインディーズをやっている。メジャーにできることとインディーズで出来ることは似て非なる。飛び出した時は自分の思った通りに進んでいけることにこそ喜びがあると勇んだが、必ずしも自由だけが待っているということではないのだということを知った。それはまだまだ僕自身の力が足りないせいもあるのだが、関わるアーチストを大舞台に上げてやることがなかなか難しい。メジャーの頃はその中で自分の意見を通すことが難しいが、しかし認められさえすれば大きな仕事につなげることが出来る。組織の中で周囲の協力を集めて大きな仕事をするということ。それに較べて常に自分で行動をジャッジしながら小さな仕事を積み重ねること。どちらが自己実現なのかはその人の価値観だ。だから、椎名林檎の選んでいる音楽活動と川本真琴の選んでいる音楽活動は、まったく違うことだけれども、どちらがいいということではないのだろう。同じようにメジャーのファーストで注目もされ成功も納め、だが本当に求めているものに向かっていくやり方も方法もまったく違っているということが、面白くて、そして哀れだ。

 そして僕は今日も売れないミュージシャンのサポートを続けている。彼らはまだまだ売れるということを知らず、だから売れるということに向かって疑うことを知らない。それはもしかすると無知ということなのかもしれない。売れるということが必ずしも幸せとは限らないということを知ることも多少は意味があると思う。しかし、それは選ぶという行為の際に発揮される条件に過ぎず、それを選ぶことがそもそも許されていない状況で、「それは不幸かもしれないことだから目指さないでもいいと思うよ」というのは、それはやはり言うべきことではないと思うのだ。僕にしても一応ビクタ−に入ることが出来たから、辞めるという選択を選べたのだ。だから、彼らの当座目指している「売れる」ということを実現させるために、小さな力ながらも頑張っていきたいなと思う。そしてその結果、彼らが結局どういう道を選択するのかということを、当事者としてみてみたいというのも、今日の三文ゴシップを聴きながら思ったりしたのである。