Thursday, March 25, 2010

団体行動


 Yahooニュースに『KAT-TUNが世界進出!赤西はソロ公演』というのがあった。まあ僕はジャニーズのことなんてほとんど縁のない世界だし、興味も特になくどうでもいいのだが、こういうのはなんだかなって思う。グループでの活動と個人の自由っていろいろと議論あるだろうと思うけれど、KAT-TUNとか、グループで歌って踊ってっていうのは、それぞれのパートをルールに従って役割をこなすことで、息も合った素晴らしいパフォーマンスになるのだと思う。いくら個人技が素晴らしくても、フィギュアのペアとかでバラバラに踊っても美しくないし、シンクロしないシンクロなんてまるで意味が無い。それは逆にいえばシンクロしているから感動を生むわけで、ジャニーズのグループもここの歌唱力のレベルをコーラスワークとか、ユニゾンとかで個々の技量にプラスαを生んでいるのだ。

 それなのにグループとしての役割を放棄して、ツアーにも加わらずにソロ公演をするという。数年前にも単独でアメリカ留学とかなんかでグループを離れているし、この男はいろいろな意味で自覚が欠如しているとしか思えない。もちろん、彼には彼の人生があるし、そんな彼を応援しているファンもいる。個人の人生をグループというしばりで潰されたくないというのならそれもひとつの生き方だ。だが、もしそれほどに大事なソロ活動だというのなら、グループを脱退すれば良いのだ。そうしたら好きに活動するのも何ら拘束されないし、される理由も無い。もう何年も前にSMAPで起きたことじゃないか。オートレーサーになりたいといってSMAPを脱退し、芸能界から見事に引退した森くんは、それはそれで立派だと思う。もちろん赤西は芸能界を引退するつもりはないだろうし、ジャニーズを離れてそれが出来るわけもないだろうから、ジャニーズを辞めろとまでは言わないまでも、その行動によって本体であるKAT-TUNのツアーに支障を来すのであれば、やはり彼はグループを脱退するべきなのではないだろうか。

 団体行動というのは個の自由を侵害するものである。プロ野球でも集合時間に遅刻しただけで罰金が普通だ。なぜならその遅刻が全体の進行を狂わせ、チームメイトの練習を狂わせ、チーム力の低下を引き起こし、結果として勝利の妨げとなるからである。生活は破天荒にしながら団体競技のチームに属したいというのは勝手なことでしかない。だから最初は罰金からはじまって、回を重ねたりしたら2軍落ちもあるだろうし、最終的には解雇もありうる。それがいやなら団体競技などやらなければいいし、個人種目で頑張ればいい。まあ個人競技であろうとそのような態度で取り組むのであれば勝利などおぼつかないのだろうと思うが。

 こういうのを見ていて、それが許されているということが今の一般的な日本のムードなのだろうかとか感じて、不安になる。昨今の生方問題もそうだ。マスコミやネット発言の一部論調は、自由な発言を問題視して副幹事長解任したことが問題で、自由な発言をすることはなんら問題ではないということになってきている。だが、これは政党に属する政治家としては大問題だと思うのだ。もちろん政治家は国民一人一人から選ばれているのであり、国民の代弁者として自由な発言が担保されるべきだという意見はもっともだ。だが、だとすれば政党を離脱すべきなのだ。自民党を離党してみんなの党を率いている渡辺喜美も、離党しているから自由な発言が出来るのであり、不満があっても自民に留まっているのだとしたら、今のような自由な発言など出来ようもない。と、僕は思うのだ。もちろん僕の立場は現時点で民主支持だし、それよりなにより小沢一郎支持である。だが、団体とかグループというのは本来個人の自由をある程度制限されることが不可避であり、その不自由さによってある種のパワーを持ち得るという一点で人は結集するのであって、そのこと自体は政治的身上とかなんとかとは関係ない話だと思うのだ。


 マンガの『ソラニン』が映画化されて来月公開されるという。機会あってそのサンプルを観ることになったのだが、これがまたユルい青春を描いてしまっている。それは以前にもブログで書いたのだが、見ていて虫酸が走るような責任感の欠如というか、覚悟のなさというか、とにかくユルいのである。僕は「今の若いものは」という言葉が嫌いだが、しかしこの原作となったマンガについても、僕のように「ユルい」とバッサリ斬っている意見が多数ある中、特に若い世代に「共感出来る」とする意見が少なくないらしいというのだ。

 なんだかんだ言いながらも、20年〜30年ほど前の、僕らの若い頃にはまだまだ社会は希望に溢れていた。だから不安を感じる前に夢を見ることができた。しかし今はそうも言っていられないらしい。まず就職することが難しく、フリーターを余儀なくされることも普通のことになっているし、仕事に就いたってリストラの不安に怯え、大会社でも倒産の不安に怯え、歳を重ねてもお粗末な介護、年金制度の崩壊などへの不安は尽きない。そんな社会に夢が持てるかというのも判らなくはないし、夢が持てないということは努力の方向性もエネルギーも漠たるものになるし、あるべき責任感よりも生き抜くためのずる賢さが尊ばれるようになるのかもしれない。

 自由とは、責任と表裏一体の概念である。責任のない自由は自由じゃなく、それは勝手という言葉で表現されるものなのだ。そのことを本当は誰かが教えていかなければいけないのだろうけれど、世の中がこうも勝手を自由とはき違えてしまっているのでは、それも困難なことなのだろうと、悲しくなってくる。