Tuesday, October 23, 2012

言論を守るとは

 橋下市長という人は面白い人だ、好きではないけど。

 週刊朝日の記事を巡って橋下市長が大激怒。Twitterで激しく罵倒。当初は強気だった週刊朝日側も白旗を揚げ連載中止を発表。それでノーサイドといいながらも橋下市長の攻撃は今も続いている。

 この一連のツイートの中で橋下市長は言論の自由に言及した。「言論の自由が保障される民主国家においても、やはり議論の余地なく認められない表現はある。」「民主社会においても絶対に許されない言論がある」と。この点について脊髄反射の如く反発するのは愚かだと思う。それは橋下市長の言うことを脊髄反射の如く盲信するのと同じくらいに愚かなことだ。なぜなら、この言葉の中にはいくつかの視点が混在しているし、そしてなおすべての発言する権利について保証するのが言論の自由という概念だからだ。

 言論とはどう保証されるべきなのか。そして保証された言論によって傷つけられる恐れのある人権はどう守られるべきなのか。そのふたつが盾と矛のような作用を生む対立する概念であり、だからこそ、この問題は複雑なのだと思う。

 自分なりに例えてみたい。それが本当に問題を映せているのかはともかく。言論というから曖昧になるが、それを「拳銃」と置き換えてみればいい。アメリカ社会では銃を持つ自由がある。開拓時代以来、自分を守る手段として武器が必要で、その歴史の流れから今も多くの人が銃を所有している。それはアメリカでは認められた権利でもある。では、銃を持つ権利が他者を撃ち殺す権利につながるのかというと、もちろんそういうことは有り得ない。しかし銃を持つ以上、暴発する狂人は後を絶たない。毎年、銃乱射事件のニュースは世界の果てまでも届いてくる。だったら銃規制をすればいいじゃないかという声も当然のように沸き起こる。だが、アメリカで銃が規制される具体的な動きはまったく起こらない。

 日本ではもちろん銃など持てない。最近ではナイフだって自由には持てない。以前深夜にドライブしている時に検問を受けたが、その際十徳ナイフの刃渡りの長さをチェックされた。こういう社会では銃乱射事件はまず起こらない。よかったよかった。いや、はたしてそれで良かったのか?

 例えを戻そう。言論は、時として人を傷つける。子供社会のイジメもほとんどは言葉が幼い子の心を突き刺しているのである。言葉の力はそれほどに強い。言葉の暴力は深刻だ。だからそれを無くす為に言葉をどう規制すればいいのか。そういう問題に必ず突き当たる。規制すればいいとしたら、誰がそのルールを作るのか。そして言葉の規制が完了したら、人の心の中から憎悪の念は消え去るのか。結局言葉狩りは心の闇をさらに深いところに追いやるだけで、問題の解決は陽の目を見なくなる。問題はそんなに単純ではないのだ。

 また、最初は純粋に善意から規制を始めても、やがてそれは規制する側、すなわち為政者にとって都合の悪い表現を規制するようになる。そうなってくることで単なる規制は言論統制に陥る。言論の自由という概念は、そうなることを避ける為に必要不可欠な概念であって、だから、他者を傷つける恐れのあるようなとんでもない言葉であっても、それを発する自由を基本的な人権として守ろうというものなんだと、僕は考えている。橋下市長が「民主社会においても絶対に許されない言論がある」というのには、やはり疑問を持つし、違和感を覚えるのはそういうところだ。

 
 では一方で、他者を傷つける言葉はどこまでも自由なのだろうか。そうではない。橋下市長の「民主社会においても絶対に許されない言論がある」というのに真っ向から否定出来ないのもそこにある。名誉毀損というのもそういうものだろう。正式に裁判に訴えて裁いてもらうということで対処する方法もある。そうでないオープンな場での発言については、市民がどう判断するかということがひとつの判断基準になるだろう。今回のように週刊誌で書かれた他者を傷つける言葉に対しては、多くの人がそれをどう解釈判断するのかが問われ、それによって雑誌が部数を落とせば、それがひとつの評価になる。それでもガマンできないしスピードがかったるいと思う人は、橋下市長のように激しく怒り、ツイートなどで対抗すればいい。その怒りの発言も、言論の自由で保証されるものだ。当然その発言によって、彼を支持する人も出てくるし、嫌う人も出てくるだろう。政治家である彼がそれで票を増やすも減らすも自己責任だ。

 
 今回の騒動でなんかスッキリとしないのは、登場人物すべてが打算的に見えることである。週刊朝日は、政治的意図というよりも単にスキャンダラスな記事によって売上げを上げたいという浅ましさが前面に立っているように見えた。佐野とかいうノンフィクションライターは、結局有名になった人をいじることで自分の存在感をアピールしようというコバンザメ的な姿にしか見えない。そういうのをジャーナリズムとは言わないと思う。そしてなにより、橋下市長自身が、この騒動を自らの日本維新の会の人気浮揚に利用しようと思っているように映る。こうして結局誰も差別問題への強い想いなどなく、結局その問題の解決になどつながっていないようにしか見えないのだ。これでは30年前に盛んだった糾弾と変わらない。問題は触らぬ神に祟りなし的なところに向かって行くだけである。


 ともあれ、橋下市長の爆発するような怒りツイートに対し、あっさりと白旗を上げる週刊朝日はもうダメだなと思う。ショッキングな内容の記事を出すなら、徹底抗戦する覚悟でやらないとダメだし、その覚悟のない週刊誌はジャーナリズムではまったくない。週刊朝日の元編集長の人も毎日続けていたツイートをパタリと止めて黙ってしまった。佐野というライターもまったく声を上げていない。普通の社会人と違って、彼らは言論人なのだ。言論こそ彼らの唯一の武器なのに、それを放棄したかのような態度で、どうして今後も言論人として生きていくつもりなのだろうか。発言の真意や正義などの判定はともかくも、言論人が自らの言論への批判を浴びた時に黙ってしまうようではどうしようもない。元編集長の人は「対応に追われている」と発言したが、この記事を是認した意味や理由を積極的に主張することこそ「対応」だろう。それなしに何の対応をしているというのか。言論の自由を守る為には、こういう人たちこそ、今積極的に発言すべきである。そうでなければ、橋下市長の「民主社会においても絶対に許されない言論がある」という論が定着してしまう。危惧すべき状況だと僕は憂慮している。