Friday, April 26, 2013

記録の行方

 僕らは日常的に写真を撮る。携帯に写真が付いてからの僕らの習慣だ。  それまで、写真は高かった。36枚のフィルムを撮って現像したらすぐに1000円だ。100枚撮れば3000円。そんな簡単にバシバシ撮るものではなかった。でも今はすぐに録れる。気軽に録れる。赤ちゃんの表情を撮りたいと、毎日連写だ。たった1枚のベストショットのために100枚くらいはあっという間だ。そのベストショットを家族に送ったり、facebookで公開したり。残りの99枚はどうするのかというと、消す訳でもない。とても消せない。だってそれも貴重な長男の一瞬なのだ。消せる訳がないじゃないか。  そうして、おそらく二度と見ることのない写真は溜まっていく。ハードディスクのどこかに格納されていく。  坂本龍馬の写真が残っているが、当時は1枚を撮るのにものすごく時間がかかったそうだ。しばらく動かずにジッとしていなければならない。当然高かっただろう。だからそんなに枚数も撮られず、結果として撮った1枚だけが残ることになる。他の瞬間もきっとあったのに、坂本龍馬の記録はその1枚ということになり、みんなのイメージはあの立った写真の坂本龍馬ということになる。  たくさんあれば、分散する。その時の意識も分散するし、後から省みる時間も分散する。あの日あの時の記録は、人によってバラバラになる。それも仕方がない。そういうものなのだから。僕らはなんのために写真を撮っているのだろうか。気軽は良い。だがその気軽が結果的に価値を下げているのではないだろうか。  僕は思うのだ。後から見返すことに意味があるのではなくて、今この瞬間自分はこの光景に注目しているんだという意識を自覚するために写真を撮っているのではないかと。だから、撮ってしまえばメモリやHDに収納され、後で見返すことなど無くたっていいのではないだろうか。とはいえ、もう見ないからと割り切ってデータを消去してしまう勇気はまったく無いんだけれども。