Saturday, November 29, 2008

日馬富士

 新大関の日馬富士のこと、あまり良い印象がない。これはどうしてなんだろうか?なんか朝青龍の手先みたいなイメージがあるのだ。しかしそういうのは非常に少ない情報だけを頭の中で増幅させてしまっているだけで、そんな独断は多いのだろうし、ちょっとしたことでそういう先入観は出来てしまうし、そして覆ることもある。
 
 今朝のテレビでその日馬富士のニュースをやっていて、九州場所のたびに訪れる場所ということで太宰府の幼稚園に向かったときのこと。幼稚園児が「あま〜〜」と叫びながら一斉に走り寄ってきた。やはり子供に好かれるというのは良い人間なんだという、これも先入観というものがあって、それでああこの人はいい人なのかもしれないとか、僕の気持ちもコロッと変わろうとしていた。
 
 でも、ちょっと待てよ、子供が好きなら本当にいい人なのか? 亀田のオヤジは亀田3兄弟という子供たちには大人気だ。だから亀田のオヤジはいい人か? それにテレビのワンカットなんていくらでも演出できる。子供たちは単にでかい生き物として、日馬富士が珍しいだけで、好きでもなんでもないのかもしれない。相撲取りだったら誰でも良いのかもしれない。僕だって国技館に行けばちょっとエキサイトする。駅を降り立って道に出たとき、幕下どころか序の口程度の力士が自分の出番を終えて帰路につくのとすれ違っただけで「うわーっ」となる。もしかしたらそういうのとあまり変わらないシーンに過ぎなかったかもしれない。
 
 それにそもそも「いい人」ってなんなんだろう? 僕自身はいい人なのか? バンドに対して「いいよいいよ、お金も出すからそこそこにリラックスして活動してね」とか言えば、彼らにとっていい人であれるのだろうか? それとも「おまえらふざけんな、もっともっとやれることあるだろう、怠けてると売れないぞ」と叱咤激励するのがいい人なのだろうか? いい人の有り様は人それぞれだし、ある行為もある人には素晴らしく、別のある人には疎ましい。全ての人に「いい人」になることはたぶん無理なのだろう。
 
 そう考えると、僕が日馬富士に良い印象がないからといって、彼が悪い人ということでもないだろうし、逆に別の誰かが彼のことをいい人と賞賛したからといって僕もその人の評価に殉ずる必要もないということだ。もちろんテレビの一コマに意見を変えても変えなくてもいいのだ。その一コマ程度の情報を小さい情報だと切り捨てられるほど、そもそも僕の中には日馬富士に対する情報など在りもしないのだ。
 
 件のテレビでコメンテーターが「あたしももう今日から日馬富士のファンになりました、頑張って欲しいですね〜」とか軽〜く言っていたのをみて、なんか反発したくなる気持ちがムクムクと沸き上がってきたのだ。それはその人のコメントの軽さがたまらなく嫌で、だから今このテレビの情報だけを見て意見を変えるのは、このコメンテーターと基本的に違わないのではないかと思うし、それだけは許せないほど嫌なことだったからだろうとか、思う。