Saturday, November 22, 2008

事件報道を白けて見ている

 連日トップで報道されるのは元厚生事務次官連続殺人のニュース。正確には連続殺人では無いが。で、このニュースになんか違和感があるのは何故だろう。
 
 言うまでもないことだしそれでも敢えて言っておきたいのは、殺人はよろしくない。これが報道でちょっといわれているように年金問題迷走の報復みたいな動機であったとしても、その動機には殺人を肯定するような正当性などかけらもない。それを許すようだったら民主主義社会ではないし、法治国家ではない。だからこの事件を犯した犯人は一刻も早く検挙されるべきだし、その裁判には一片の情もかける必要はないと思う。
 
 この2つの事件の関連性を早くからマスコミは重視したかのような報道を繰り返している。だがどこにその証拠はあるのだ? 僕が違和感を感じるのは、つまりそういうことだ。
 
 麻生総理が「そう決まった訳じゃないからコメントできない」「もしもテロだということがハッキリしたなら、それは許すことの出来ないことだ」というようなことを言っていると、「なんて煮え切らないコメントなんだ、ことの重要性をまったく判っていない」という野党政治家の批判をさもありなんと載せている。これは政治家の発言として載せているだけで新聞の判断ではないということも出来るのだろうが、事件を、報道を、よりセンセーショナルに持っていこうという流れを感じる。その流れは一体何故作られようとしているのか、そして誰が得をするのか?
 
 いつも報道って不思議だなと思うのだが、例えば小室哲哉容疑者が取り調べの中でどういったことを喋っているという内容が事細かに報道される。これ、警察の発表を垂れ流しにしているのであって、裏を取れているのかというとそんなことはない。一方の当事者である小室容疑者には話は聞けないのだから。それでも何も報じないよりはいいだろうという意見もあるだろう。しかし警察の発表に誤りがあったときに、誤りというよりも意図的な情報操作意図があった場合、報道はどうするつもりなのだろうか。まあ小室哲哉が何を言ったかなんて大したことではないが、今回の報道でいわれている国家に対するテロって、これ、ミスリードだったらどうするつもりだろうかというのがやっぱり拭いきれなくて仕方ないのだ。
 
 当初から思っていたし現実にそうなってきていることとして、なんか被害にあった元厚生事務次官はとてもいい人で、こんな人を殺害するなんてひどいという論調になってきている。しかしそうではないだろうと言いたい。こんないい人でなくとも、どんなに悪い人であっても、法の下の捌き無くして個人の裁量で人を殺すということは絶対にダメなのだ。そこを確認したい。それと被害者を悪く言うのは人情に忍びないという自然のことから、まるで厚生省も社保庁もすべて悪くないというすり替えが行われているし、さらには厚生労働省叩きをしてきたマスコミに責任があるというような論調にまで発展してしまっている。たとえこの殺人事件が報道に煽られた誰かが暴発したものだとしても、だからといって報道にその暴発的殺人の責任があるということになれば、報道なんて出来るはずがない。でもその方向に動いているというのが本当におかしいと思うのだ。しかも、まだ犯人は逮捕されていないし、どこからも犯行声明も出されていないし、その動機がなんだったのかについては単なるゴシップ的な推論だけしかない時点だというのにだ。
 
 先述の麻生総理、政策についての発言は迷走ぶりが目に余るが、この件に関するコメントは実に慎重でいいと思う。もしもその発言を「ことの重大性を判っていない」と声高に叫ぶ人がいるとすると、そういう人はえん罪事件について論評する資格はないし、もっといえば、そういう人に裁判員になどなってもらいたくはないなと思う。
 
 世の中にはもっともっと殺人事件もたくさんあるのだ。交通事故もたくさんあるし、その中でもっともセンセーショナルな要素を持った事件にマスコミが集中したいというのも判らないではないが、そのセンセーショナル性をもって、正義だとかなんとか言っているのはちゃんちゃらおかしくて、テレビのチャンネルを変えたくなってくるのである。