Thursday, July 02, 2009

たまには仕事の話〜渋谷でライブ


 7月になった。2009年ももう半分が過ぎたということ。めまぐるしく変わる日々。流されるように過ごして、本当にものごとをやれているのか、自分にひとつ筋は通っているのか。そんなことを考えたりする。

 そんな7月のはじめ、僕は夕刻より渋谷のライブハウスDeSeOにいた。5月にミニアルバムをリリースした仙台のミュージシャン石川晃次が東京で初めてのライブを行うのだった。というか、今の活動をスタートしてからは初めてのライブだったのだ。

 石川くんはロス留学を経てフィリピンのミュージックシーンで活動してきたという異色の経歴を持つ。フィリピンでは日本で言えばサザンのような国民的ミュージシャンたちの集団と一緒に仕事をこなしてきた。筋金入りのプロである。しかしながら日本での活動歴は特に目立ったものもない。昨年日本に生活の基盤を移したばかりだから当然といえば当然なのだが、それではいけないという気持ちも強い。それはやはり彼がプロだからなのだろう。インディーズであれメジャーであれ、スタッフにすべてを任せっきりで自分は何もしない、ただ神輿に乗っていればOKなんじゃないのって思っているミュージシャンもいるが、それは結局はアマチュアなのだろうと思う。しかし石川くんのように、音楽のクオリティも音楽に賭ける誠意も優れているものは、もうプロといっていいのだと思う。ただ、日本での活動経歴も基盤もまだ乏しいというだけでしかないのだ。

 で、そんな彼だから、きちんとした活動基盤を作ってからライブをしたいと当初は語っていた。活動基盤というのは、バンドを組んで、CDの音源と同じサウンドを表現出来るようになってからということを意味していて、だが、それはそう簡単なことではない。昨年日本に戻ってきた状況ではまだまだ横のつながりもなく、サポートを入れるとしたらギャラを払ってということになるわけだが、それもなかなか簡単ではない。ではダメなのか、ライブは出来ないのか、してはいけないのか? 僕の答えは違う。やればいいのだ。やれば何かが見えてくる。そして、見せることが出来る。見せられるものは完璧ではないかもしれない。しかし、完璧などというものはそもそも存在しない。あるのはその場にある空気と、偶然の連続である。だがそんな偶然であっても、意思が空気をコントロールすることは出来る。大事なのはそのコントロールであり、意思なのだ。そろえられた形ばかりの音色ではない。一期一会でしかない出会いを、ハプニングを、お客は期待しているのだ。客の期待に飲み込まれ、緊張で思うままに出来ないうちに持ち時間が終われば、そこに感動など生まれない。しかし自分の意志が緊張を打ち壊し、客の想像を超える気を吐き出すことが出来たなら、それは名ステージとしていつまでも観客の心に残るだろう。大切なのは会場の広さや権威やステージ上で鳴っている楽器の数ではない。気合いなのだ。と、僕は思う。

 石川くんの東京初ライブは完成とはとても言えない。だが、一人で弾き語りという形でもいいからまずはライブをやってみるんだという境地に踏み込んだということが進歩だと思った。なんの葛藤もなくライブをやっているのではなく、やるべきことを考えながらやっている彼の表現者としての進化を期待したい。少なくとも、いい声をしているじゃないか。歌がうまいじゃないか。それがすべての基本だし、そこが既に確立しているだけで、僕の期待は裏切られることはないだろうなとか感じたりしたのだ。