Monday, February 28, 2011

『苦役列車』西村賢太



 芥川賞作品を芥川賞作品だからということで読んだのはどのくらいぶりだろうか。たまにはそういう選択も良かろうと思った。今回店頭に並んでいる旬の受賞作は芥川賞直木賞それぞれ2作品の計4作品。どれでもよかった。正直どうでも良かった。その日の「本屋で何か買いたい」という欲求を満たしたいだけだった。受賞作品くらい読んで話題についていくべきだと思った。どの話題についていくのか、その話題を誰とするのか、よく考えたら誰ともそんな話などしない。だがなんとなく、読んでさえいれば漠然とした何かについていけるような気がした。仕事から帰る途中の閉店間際の本屋で、俄に舞い降りたそういう衝動がBGMで流れていた螢の光に後押しされていたといわれれば、まったくその通りかもしれない。早くしないと閉まるし、仕事終わりで早く帰宅したいという思いもどこかにあったし、読むべき本をじっくり選ぶような余裕はそもそもなかったのだ。

 それで4冊の中から、僕は一番地味なその本を手に取った。西村賢太の『苦役列車』。もうひとつの芥川賞『きことわ』は美人作家ともてはやされている朝吹真理子の作品。同じく直木賞の道尾秀介もイケメン作家と報じられていた。よくよく見るとそれほどイケメンという感じではない。きっと本人も気恥ずかしく思っているだろうと勝手に思うが、案外本人は満更でもないかもしれない。そういう美人とかイケメンとかいう言葉が話題で踊るのは、ルックスの方が作品力に勝っているからだ。記者たちも褒めるべき点が作品の中に見当たらず、作品とは本来関係のない作者の見栄えなどを褒めるしか無くなってしまっているのだ。それもよく見たらたいしたことのない、芸能人の中に放り込んだらたちどころに霞んでしまうほどの見栄えをだ。つまり、その2作は読むべき本ではない。読むべきは他にあるはずである。

 木内昇の『漂砂のうたう』は時代小説らしい。何が悲しくて今から時代小説を読まなきゃならんのだ。俺は文学を読みたいのだ。無論時代小説が文学ではないなどという偏狭な考えを持っているわけではない。だが、文学という序列の中では時代小説はやはり読み物に過ぎない。過去の人たちが過去というルールの中で生きているという舞台を与えられなければ描けない世界とは一体なんなんだ。当時の時代背景なんてかぎかっこ付きの中でなく、今の人間が前提や説明なく肌感覚で体感出来る舞台の中で表現出来るものこそリアルだろう。なぜなら逃げ道がないからだ。それは言わばネット中継で見られる生感であり、時代背景に逃げ込む表現などというものは断片的に恣意的に後から編集された9時のニュースのようなものである。読むべきはなんなのか。時代小説などではまったくない。今のリアルを描いた作品だろう。『漂砂のうたう』をレジに持っていく理由などは髪の毛一本の重さほどもありはしないのだ。

 で、読んだ。スーッと読んだ。が、気分はまったくスーッとしない。この主人公の鬱屈をどう説明すればいいのか。生きている現状を生んだ遠因は本人にはない。だが、置かれた状況から這い上がる努力は不可能ではないし、事実その機運にも恵まれかけるのに手放してしまう。それは明らかに本人の性である。彼を叱責するのは、簡単な様で簡単ではない。実際にこういう人物が周囲にいたら、公然と面罵するのは勇気がいる。返ってくるのはきっと社会に起因する理由になるだろうからだ。そしてその社会の一端に自分がいる以上、その責任は面罵する自分にもあるのだという小理屈に絡めとられてしまい収拾がつかなくなるからだ。だからといって擁護する気にもなれない。やるべきことをやらなかった責は彼自身に確実にあるのだから。つまり叱責するのも擁護するのも面倒なことになり、結句適度な距離を保ちつつタイミングを見て離れていくのが最適ということになるという、そういう人物像が見事に描かれている。読後感が清涼とはいかないのは作者西村賢太の筆力の所以である。

 面白い映画を観た後は館の外に出た時その主人公の気分で闊歩したくなる。仁義なき戦いを見れば誰もが高倉健や菅原文太がごとく肩で風を切りたくなる。カンフー映画を見ればブルースリーになり物陰から現れる人を打ち倒したい気分になる。同じように、僕は読後すぐにかいたこの駄文で、他者を不当に貶めてしまいたい気分になってしまったのだった。それはある意味作品の中に僕がのめり込んだことの証なのだろう。時間が許せばあと3回くらい読み返してもいいかもしれない。受賞は当然だろう。プロの先生方が賞に選しているのだからあらためてここで評するまでもないことであるが。


 というわけで、冒頭の3作品に対する物言いは、『苦役列車』の主人公になりきった僕が言っていることであり、実際とはまったく違ったことだということをご理解ください。朝吹真理子氏は十分に美人作家であり、道尾秀介氏も紛うことなきイケメンであり、たまたまそういうパッと見が話題になっただけで、それが両作家の実力を寸分とも貶めるし理由になどなりはしないし、きっと読み応えある素晴らしい作品だろうし(読んでませんが)、『漂砂のうたう』をレジに持っていく理由はゾウの重さほども、いやスカイツリーの高さほどもきっとあります。普段の僕は自分を「俺」なんて言うような生意気野郎ではけっしてありませんので、どうか誤解なさらぬよう。