Tuesday, December 14, 2010

20周年記念日の雑感

20周年を迎えるこの日、なにか書くべき、書かずにはいられない。

 これまで世話になった多くの人たちへの感謝とか、そんなものも考えはした。でも形式ばかりになってしまうし、長いだけでつまらない。20周年とは、これまでの振り返りでもあるが、それを礎石とした未来へのターニングポイントでもある。だから、今思っていることを書いてみようと思う。世話になった皆さん、ありがとでした。簡単ですみません。心のすべては、言葉にはできないのです。

 さて、音楽業界はこの20年で大きく変化した。当然だ。変化は音楽業界に限ったことではない。どんな仕事も時代とのキャッチアップだ。遅れていたら淘汰される。ではどんな変化があったのか。まず、インディーズというものが普通になった。ショップで扱われない立場から、どこのショップでも扱ってもらえるような状態になってきた。それでも店頭に置いてもらえることはまれじゃないか?そうだ。だがビクターで営業をしていた頃に知ったことだが、メジャーだって店頭に置かれているのはごく一部でしかない。インディーズが最初から全部置いてもらおうなんて虫が良すぎる。

 店頭に置いてもらいたい。それは昔からの悲願だ。あわよくば試聴機に入れてもらいたい。20年の間で試聴機に入れてもらえたものも少なからずある。だがやはりごく一部だ。一般の人に聴いてもらう機会なんて、そうそうあるわけでは無かった。それが現実だ。ネット以前の、ほんのちょっと前の現実。

 しかし、今やレコード店の試聴機に入らなくても試聴してもらう機会は増えた。ネットである。まず、自分のサイトに音源をアップして聴いてもらうような仕掛けを一生懸命作っていた。embedというタグをただ貼付けただけではダメだったりしたし、HTMLを独学で学んだり、マクロメディアのDirectorに組み込んだりもしたりした。だが今やそんなタグなんてなくても曲は聴いてもらえる。myspaceにmp3をアップすればすぐに世界公開だ。YouTubeにアップすればビデオも見てもらえる。ビデオの編集だって、10年以上前はSCSIでつないだ複数のハードディスクをRAIDにして再生速度を確保したり、5分のムービーの画質変換に28時間とか普通だった。それが今やノートパソコンでお気軽にできる。家庭用のビデオカメラでフルハイビジョンだ。5分のムービーの画質変換に10分かかるともう軽くイラッとする。

 肝心のレコーディングだってそうだ。20年前の最初のCDはmidiのデータを5インチのフロッピーで保存したし、ノイズだらけの4トラックカセットマルチで録音していた。それが今やノートパソコンでデジタル録音。レイテンシーの問題やテイストの違いはあるけれども、少なくともヒスノイズとは無縁である。少々のタイミングのズレはもちろん、音程の修正だって簡単に出来る。出来上がった音のやり取りもオープンリールテープからDAT、そしてCD-Rへと変化してきた。今ではWAVファイルをネットで転送も当たり前だ。

 すべてがお手軽である。

 お手軽は素晴らしい。何もかもが出来るようになった。かつてはちゃんとしたレコーディングはプロのスタジオじゃなければ出来なかった。出来た楽曲を売るのもメジャーの流通じゃなければほぼ不可能だったし、それなりに権威のあるメディアに登場しなければ存在を知らせることだって不可能だった。今やそれがすべて個人のポケットマネーのレベルで出来る。

 何でも可能だ。それは同時に逆のハードルが上がるということでもある。世の中に僅かの才だけが君臨していた時代から、有象無象までが発信をするという時代。当然才は有象無象に埋もれていく。リスナーは多くの選択肢の前で戸惑い、本来選択したい選択肢にさえ辿り着かないという状況に陥っている。権威あるメディアも個人メディアの渦に巻かれる。無料のweb情報を見るのに時間を取られるのだから、有料のメディアに割く時間は当然削減される。有料だから素晴らしいとか、無料だからクズだとか、そんなことを言っているのではない。価値は分散し、一定以上の活動を行うのに必要な注目(経済的価値/予算)を失い、目先の情報に追われることになり、ドッシリと先を見据えた情報提供は後回しになる。

 音楽も同じだ。たった10曲をレコーディングするのに予算がかかるとしたら、それは人生を賭けた勝負になる。だからクリエイターも表現者もみな必死になるし、成功に向けてあらゆる努力を惜しまないだろう。だが、お手軽に出来るレコーディングに誰が人生を賭けようか。才能無き者が暇つぶしにMacをいじって曲を作る。楽器なんて弾けなくたって構わない。誰に聴かせたいとも自分の人生を委ねようとも思っていない楽曲(?)が世に出回る。先日もあるブログに
「素人でもiTunesストアに曲が載せられるかを試したくて、テキトーな(自分で書いていたのだ)トラックを使ってやってみた。ちゃんと有名アーチストと同じところで自分の曲が販売されるようになった。感動だ」
と書いてあった。それが現実だ。iTunesというフィルタを通すと誰もがアーチストで、なんでも商品だ。

 そんなものを、リスナーは聴かされるのだ。聴かないとしても、価値ある創造に辿り着くまでの障害となって立ちはだかる。価値ある音楽を聴く機会を奪われてしまうのである。

 問題は、その「価値」の判断がどこにあるのか、だれが判断するのかということである。メジャーというのはその役割を担ってきた側面がある。彼らが選んだ才能を彼らによって提供され、限られた選択肢の中から選ぶことしか、リスナーには許されなかった。もちろん彼らのほとんどは真摯に音楽を選んでいる。でもそれだけではない。コネでデビューするようなケースも少なくなかった。巨額な金が動くわけだから、純粋な想いだけで話が成立するわけがない。スポンサーとの絡みもあるだろう。メディア上層部とのしがらみもあるだろう。どろどろとした情念の世界が渦巻くこともしばしばだ。それに付き合わされるのではリスナーも不幸だ。

 だから、現在のように誰もが発信出来る状況というのは少しはマシになったと思う。選ぶ意思のある人には選択肢が提供されるからだ。人はそれぞれ趣味指向があって、自分が聴きたいものを自由に選んで聴く権利がある。その権利を行使出来る状況は素晴らしい。メジャーが素晴らしいと思って世に出すものを「つまらない」と感じる権利もあるし、メジャーがこんなものダメだと思って世に出さないものを「素晴らしいじゃないか」と感じて聴く権利もある。選ぶことに苦労するのと、選ぶことを許されなくてお仕着せの文化を享受する安定と、僕だったら苦労を選びたい。

 だが、多くの一般リスナーにそれを強いるのは無理がある。仕事があるし、家庭がある。音楽は不可欠であっても、最優先事項ではない。だから、それを最優先事項にして人生を賭けている者が、その判断をする必要があるのだと思う。僕は、インディーズレーベルというものの役割はそういうことだと思う。20年前は、世に出ることの出来ない価値を世に出すために苦労をした。障害は、世の中に発信出来ないという環境だった。作ることのハードル、知らせることのハードル、届けることのハードル。これをアーチストと一緒になって超えようと努力してきた。

 しかし今、僕らの努力の質は変わったのである。障害は、中間にある組織ではなく、リスナーの前に広がる発信者だ。自称アーチストという有象無象がリスナーに押し寄せてきていて、聴きたい音楽に到達出来ずに溺れようとしている。そういうリスナーが岸に辿り着くための道標や、灯台というのが僕らレーベルの役割に変わってきている。そう思うのだ。

 今密かに進めていることがある。それはレーベルというものの在り方を変えていくということである。これまではレーベルはミュージシャンとタッグを組んで、その音楽を世に出すための仕事をしてきた。そのタッグ性ゆえに、ともすれば発信する音楽の価値の在り様がいびつになることもある。特にインディーズの場合、未知数のアーチストとの仕事になる。未知数の中の可能性にスポットを当てることが仕事のメインになる。だが、未知数であるが故に、将来への期待も必ず実現するという保証が無い。それでも僕らはプッシュしなければならない。プッシュすることが彼らの将来の可能性を引き出すエンジンであり、結果が出ればそのプッシュのすべてが正しくなるのだけれど、結果がでなければ、プッシュしたことがすべて空言になってしまう。プッシュしている時点では正しくもあり、空言でもある。それをリスナーに信じてもらうことは、僕らの賭けに賭けさせることでもある。僕らは活動のハンドルを握っているから結果を受け入れる覚悟もあるが、単なるリスナーにその覚悟を強いるのは適当なのか、僕はこの20年ずっと悩んできていたのだった。

 在り様を変えるということはどういうことなのか。まだ構想段階なので何ともいえないのだが、大まかにいうと、プッシュの公平性を求めていくということである。レーベルは作って売るだけではなく、他社製品であってもプッシュするという存在に変わるべきなのだ。そういうことを、考えているのだ。明かせない部分がいっぱいあるため、中途半端な提示で申し訳ないけれども。

 
 長々と書いてしまった。20周年の記念の1文なんだから、許して欲しい。まあいつも長いのだが。これからも頑張っていくので、どうぞよろしく。