Monday, December 27, 2010

安易な批判

 マスコミもそうだし、「民意」なるものの主体である我々もそうだ。批判は簡単なことなのだ。しかし簡単なことばかりやっているのでは、未来など切り拓けない。

 今朝メルマガで送られてきた日経ビジネスオンラインの見出しが「ニュースを斬る:民主党は潔く分裂して出直せ:日本丸はゆっくりだが確実に沈みつつあるぞ!」だった。記事を見るとそれなりに理由を付けながら現状を憂いているような展開で、結論として「党内の路線対立で政策を一本化できないならば、潔く分裂したら良いだろう」と結んでいる。

 バカか。もしここで民主党が分裂でもしてみろ。その先に待っているのは自民党による政権である。しかも自民党に取って代わる可能性のある政党のない状況で、他に選択肢のない結果的な長期政権だ。世襲率が極めて高いおぼっちゃま政党にこの国の未来を任せられるというのならそれもアリかもしれないが、それがダメなのはハッキリしているのだ。民主党を批判する人たちの多くが先の衆議院選挙をさして「民主が良くて選ばれたのではない、自民党が否定されたのだ」と言う。だとすれば、民主の崩壊で自民が復活するのは、最悪のシナリオになってしまうのではないか?

 国の将来に絶対の青写真などない。だから政党も、その中にいる政治家も、さらにはマスコミも国民もそれぞれ違った指針に基づいていろんなことを言うだろう。自分と違う意見の人たちによって描かれたロードマップには批判もしたいだろう。だが、それらをすべて聞いていったら、政治は前に進まない。船頭多くしてなんとやらだ。大事なのはある信念、哲学に基づいて国の設計図を作っていくということである。純日本風の木造建築なら柱を組むことで強度を生むのだし、西洋的な2×4工法なら壁で強度を生み出す。どちらがいいではなく、どちらもアリなのだ。だが1軒の家を1階は柱で、2階は壁でとやっていると、たちまち全体の強度は失われるだろう。つまり、国というものを1つの家だと考えた時、そこには一貫した建築思想で貫かれた設計図が必要だし、どの設計図で行くかを決めるのは、リーダーシップを持った家の代表である必要があるのだ。長男の意見も次男の意見も、末娘の意見も聞いていいだろう。だが最後にはお父さんかお母さんが決断する必要があるのだ。

 だが今の政治をめぐる環境では、そういう設計図を作るということが悪であるかのような雰囲気が醸し出されている。なにか問題が起こったらわあわあ騒ぐ。自分のことは棚に上げてだ。今も菅内閣の法案成立率が悪いことを指摘して「だからダメなんだ」という。しかし先日の参議院選挙でねじれを生んだのは国民の投票行動であり、そういう結論にしたら法案は成立しなくなるよということは最初から判ってたのだ。だったらそれは菅内閣のせいではない。そういう混沌を国民が選んだのだ。それが本当に民主への否定なのだとしたら、2院制の日本では次の衆議院選挙までの間に起こる混乱は当然覚悟する必要がある。その覚悟を持って国民が民主惨敗を選んだのであれば、法案が成立せずに予算も混沌とする状況を国民全体で受け入れるべきだし、そういう覚悟を持って民主惨敗を選んでいないのだとしたら、先読みが出来ない国民の知能レベルの低さを嘆くべきで、菅内閣を非難するのは筋違いだ。国民が選挙で国会議員を選ぶ権利があるということは、当然選んだ結果について国民が責任を持つ義務があるのであって、それをすべて無視するかのように内閣のみを批判するのは、民主主義というものをまったく理解していないばかりでなく、民主主義を自ら放棄するごとき愚盲な行為に他ならない。

 国は、そうそう変わらない。小沢一郎が宮沢内閣の不信任に賛成を投じて政治改革への道に進み始めて17年である。その間2度の政権交替を果たしたものの、激しい抵抗と形振り構わない攻撃に曝されながら、今なお苦境に立たされ続けている。政治資金報告の記載について意図的な誤解に基づいた攻撃を受けているが、その裏で多くの天下りが行われ続け、甘い汁を吸い続けている人たちがどれほどいるかである。僕もその動きを見つめながら、ああ、改革というのはそうそう進むものではないのだなあということを実感している。進まない最大の理由は、改革の意志を持つものへの攻撃の凄まじさだ。テストで100点を取らないヤツは全員落第だとでも言わんばかりの攻撃姿勢だ。打率が10割無いなら選手としての資格なしと言うかの如しだ。しかし実際にはそんな批判は当たらない。そういう批判そのものが間違っているのである。間違っているというより、意図的にそういう間違った批判を行っているのが現在の政治を取り巻く環境である。これでは進展するものも進展などしない。

 進展しなかったらどうなるのか。国は沈んでいくのである。それでいいのなら、批判もすればいいし、その批判を鵜呑みにすればいい。だが、僕は沈んでいいとは思えない。多くの人もそうだろう。件の日経ビジネスオンラインも「日本丸はゆっくりだが確実に沈みつつあるぞ!」と読者を脅しているのである。沈んではいけないということを言いたいのだろう。その脅しに読者がビビって「ああ、民主党よ潔く分裂しろ」と思ってしまうと考えているのか。だとしたら悪意ある記事だし、そう考えていないのであれば、愚か極まりない記事だと言えよう。

 はっきり言って、現在の日本は国難に遭遇しているといえるレベルにある。この苦境から脱することが喫緊の課題である。そのためには、国民も痛みに耐える必要がある。ではその痛みとはなにか。消費税増税を容認しろということなのか。いや、そうではない。政治がどうなるのだろうかという不安に右往左往すること無く、とりあえず自分たちで選んだ政権なのであれば、些末なこと(仙谷氏の問責決議など、自衛隊を「暴力装置」と言っただけのことでしかない)で非難しまくるのをグッと我慢して、次の選挙まで見守るということが、「不安/失望」という痛みに耐えることなのだ。別に未来永劫その政権に従属するということではない。選挙があるのだ。その時に投票という権利を行使すればいい。それまで我慢しろなどと言うつもりは更々ない。だが、その程度の我慢も出来なければ、政権は常に右往左往せざるを得ないし、本質的な政治に費やすべき時間を数合わせのために費やさなければいけなくなってしまう。それこそが国を停滞させる根源なのだということを、僕らはやはり覚悟しなければいけないのだと思う。

 とかく世論調査という名の怪しげ(質問の仕方が公表された世論調査など皆無である)な民意を繰り返し、週単位での支持率で煽り、現在進行中の政治を中断リセットさせたがるのは、そのことで起こる国の停滞への危機意識よりも、停滞によってもたらされる甘い汁の個人的享受の方にプライオリティを置いている人たちがいるからである。一般市民で、この国の将来が不安だと憂う人は、そんな世論誘導にひっかかってはいけない。安易な批判は結局自分の首を締めるということを今一度肝に銘じる必要があるだろう。