Sunday, June 12, 2011

集中と分散

 京都で暮らしてて驚くことは、カフェとラーメン屋のレベルが高いということだ。本当に驚くくらいに。

 今日(土曜)も市内を結構歩いて、腹が減ったので京大近くのラーメン屋にふらりと入った。特別目立つこともないありふれた古い店。カウンターと厨房を仕切る台の端に水道の蛇口が後付けされていて、それがどう見ても素人工事。だって補強がビニールテープだもの。

 だが、出てきたラーメンはとても美味かった。鳥を煮込んだあっさりスープと書いてあったけど、コラーゲンがたっぷり煮出されたかなりの濃厚スープ。麺は細麺、それなりの固麺。福岡出身の僕が博多ラーメンかと思うくらい。先日食べた有名店の天天有のラーメンもたしかそうだった。スープを作るのにどれだけ煮込んだんだよと言いたくなる。有名店なら意地とメンツが仕込みに現れてても不思議はないが、今日のお店はそんな感じではない。店名は「来々飯店」。ラーメン専門店でさえないのだ。それでも出てくるラーメンに手抜きはない。華美なトッピングなんてないけれど、肝心のラーメンそのものが完璧だ。それでいて、一杯550円という値段。やはりラーメンはそういう食べ物なんだと思う。牛丼が200円台で提供される時代にラーメンが800円してしまうとどうしても「?」という気分になる。それはサラダ付きの定食の値段じゃないかと。

 他にも京都でいくつかのお店でラーメンを食べた。どれもどれもが美味くて、どこもどこもが個性的だった。僕は、16年前に札幌に行った時のことを思い出した。当時ウチからCDをリリースしていた金谷ヒデユキのイベントだったのだが、ライブ翌日、空港に行く前にぜひとも札幌ラーメンを食べようということになり、タクシーに乗り込み運転手さんに「おいしいラーメン屋さんに連れてってくれ」と頼んだ。するとラーメン横丁なんかではない住宅街に入っていって、ファミレスのような雰囲気のお店で下ろされたのだった。2人で「ここが?」と訝しがったのだが、食べてみたらこれが美味い。福岡出身の僕は当時基本的に博多ラーメン以外のラーメンを認めていなかったのだが、その札幌ラーメンを食べた時から、「ああ、これは同じ名前でラーメンと呼んでいるけれど、別の食べ物なんだ」ということを理解するようになったのだ。店内を見渡すと家族連れがかなりの割合。子供も美味しそうに食べていた。そこにはこじゃれた雰囲気を出そうなんて色気はまったくない。純粋に味で勝負している、地元に愛されているラーメン屋だった。

 東京では多くのラーメン屋さんが雰囲気を大事にしている。照明や内装。その割にお客は窮屈さを感じている。カウンター席の椅子は固定されている。時には座る席も指定される。トッピングがこれでもかと工夫されたメニューを前に、シンプルにラーメンを頼むのが申し訳ない気分にさせられる。下手をするとラーメン1杯に1000円を超えることもある。26年暮らしていて、それも仕方ないことかと思っていたけれども、それは東京に限った特殊事情だったのかもしれないと、今はそう思ったりするのだ。東京はテナントの家賃が高い。それをまかなうためには客単価を上げ、回転率を上げる必要が過剰にある。人件費も出来るだけ削りたいし、深夜まで営業したい。そういう事情が、お客さんへのサービスを低下させてしまうんじゃないだろうか。


 カフェも京都はすごい。スタバなどのチェーン店ももちろんあるが、京都だけの、その1店舗だけのカフェが沢山ある。それらのクオリティがいずれも高いのだ。例えば六角通のTRACTION book cafe。広くてゆったりしてるし、オシャレだし、ドリンクも美味しい。二条高倉の月と六ペンス。会話を許さない独特の読書カフェで、こだわりのコーヒーを飲ませてくれる。有名どころでもフランソワ喫茶室、ソワレ、スマートコーヒー、みんないい雰囲気。パン屋の進々堂喫茶コーナーでは売ってるパンを買ってその場で食べられる。地元のマダムたちが毎日のように集っている。

 で、僕がすごいと思っている一番のポイントはというと、空間の使い方である。京都のカフェはそのほとんどがゆったりと作られている。だから隣の席の人を気にしなくてもいい。別に貸し切りのようにゆったりする必要なんてなくて、おそらくほんの5センチとか10センチの話なんだろう。しかし、その数センチの空間が決定的に雰囲気を変えてしまう。これは京都独自の店だけではない。スタバなんかも東京とはちょっと違う。ゆったりしている。池袋ジュンク堂横のスタバの1階席にあるウインドウ寄りのスツール席なんて、あれで同じ値段取っちゃいけないよねというくらいにぎゅうぎゅう詰めだ。それで全部が埋まって、奥に座ると出る時に「すみませんすみません」を連呼しなければいけなくなる。当時はそれを当たり前と思っていたけれど、あれは当たり前じゃなかったんだと、今になって痛感しているのだ。

 それに慣れてしまっているからか、京都のカフェの空間の贅沢さに呆れるほどの驚きを感じている。席と席の距離に加えて、空間演出も楽しい。三条大橋にあるスタバでは夏に床席が出る。六角通にあるスタバは六角堂の隣にあって、全面ガラスの壁からお寺のお堂が眺められる。寺町通の上島珈琲ではお店の真ん中に坪庭がある。実に京都っぽいし、奥のソファ席は別に席料を取られるんじゃないかというくらいに個室感たっぷりだ。もちろん席料なんて発生しない。今日行った元田中駅前のweekendersは元ダンスホールだったそうで、実に広いフロアに僅かな席しかない。街の中心でもないせいか土曜の夕暮れ時に客は僕を含めてたった3人。申し訳ないような気さえした。


 思うに、東京は人が集まりすぎている。かく言う僕も20歳の時に憧れて東京に移った口だ。大都会東京の魅力は心の底から理解している。だから日本全国から人が集まり、土地の値段が上がり、個人が店を営むには難しい環境になっている。大手はセントラルキッチン方式で食材を供給して効率を図れるからいいが、個人の店にはそれは無理だ。内装も本社のデザイナーの方針に従って同じような店が次々と出来る。どんどんコストをカット出来るチェーンに対抗するのは実際にはほとんど難しい。結果として、売上げのほとんどをテナント料と人件費に持っていかれるし、食材のコストを削って、結果的に味を落として自らの首を絞めている。

 そんな街に住んで26年。ある意味、僕の感覚は麻痺していたのかもしれないと思う。僕の実家は福岡市中央区で、京都にも負けないくらいに十分な都会だ。そのことは奥さんから指摘される。奥さんの実家は三重県松阪市で、彼女は子供の頃に都会に憧れていたそうだ。欲しい本が置いてある本屋にいける街。見たい映画をやっている街。そういう文化に触れたいという欲求が、やはり彼女を東京に向かわせた。その気持ちはよく判る。僕も東京に憧れたのだから。だが奥さんに言わせると、福岡くらいの都会に暮らしていたら東京に行く必要なんてないらしいが。

 その言葉を、東京にいる頃は「そんなことはない」と思っていた。しかし、今こうして京都に暮らすようになってみて、ある意味その言葉は正しかったなと実感している。東京は確かに魅力的な街だ。しかしそこまでじゃなくてもいい。人間が集中することにより、東京はある意味画一的で土地に人が支配される場所になっているような気がする。マンションの家賃も高かった。オフィスもそれなりに高かった。駐車場まで含めると、京都に来てほぼ半額で済むようになった。僕らはその金額を支払うために、夜遅くまで働いていたのかもしれないと思う。高田馬場のマンションから見えるビルのオフィスは毎日夜中まで電気が点いていた。それが当たり前の光景だった。でも、京都ではみんなとても早く仕事を終える。キラキラレコードが入っているビルなんて、ヘタをすると6時前で他のオフィスが全部閉まる。うちがまだ働いているというのにビル入り口のドアが閉まったりして、この間もヤマト運輸の人が入れなくて困ったことがあった。それはちょっと極端かもしれないけれど、四条と河原町の一部を除けば、京都の街自体終わるのが早い。でもそれが普通なのかもしれないと思うようになってきた。残業して働いて稼いだお金は、家賃や高い家のローンに消えていくだけなのだから、東京を離れた生き方をしさえすれば、そんなに働かなくてもいいのかもしれない。

 昔は、実際に東京にいなければ出来ない仕事が沢山あったと思う。直接会わなければいけない仕事も沢山あったはずだ。しかし今、インターネットの発達によって、どこにいてもコミュニケーションを取ることが容易になってきた。そういう環境の変化は、もう人を土地に縛る理由を薄めてきていると思う。もちろん今いる職場がドラスティックに変化することはそれほど期待すべきではないだろう。しかし、徐々に人の働き方は変化していくはずだし、そのことが東京の一極集中を緩和していくのだと思う。そうやって、地方都市ももっと活気を持つようになり、経済的にも潤い、東京ももっと緩やかな空間を取り戻せればいいなと思う。人々が高い土地代のために働く必要が薄まれば、文化的なことや美味しい食事にもっとお金を使えるようになるだろう。いつまでも土地のために人生を費やす時代など続かない方がいい。

 そんなことを考えながら、僕は京都に移住したことを一生懸命正当化しようとしている。でも心の底から、ラーメンが美味いと思うし、カフェはくつろげると思うし、ここでの暮らしが楽しいと思える毎日を送っているのである。