Thursday, June 16, 2011

トップと組織

 吉田所長の行為の是非について、報道された頃から賞賛の声が挙っているが、僕は基本的に組織論としてはあの行為は賞賛されたものではないと今でも思っている。

 福島原発の事件で、地震により冷却用の電源が喪失し、海水注入をしていたところ本店から一時中断の指示が出た。しかし吉田所長は自分の判断で中断をせずに注水を続けた。「現場では生きるか死ぬかの問題。一度中断してしまったら、いつ注水再開できるかわかったものじゃない」という判断だったそうだ。事実としてはこの判断によって事故が今の程度で済んでいるのだろうし、そういう意味では正しい判断をしたということになる。多くの国民が救われたという点では、素晴らしい人だと思うし、感謝してもしきれないとも思う。だが、それでも組織論としてはけっして正しい行為と手放しに賞賛するのには抵抗があるのだ。

 組織というのは、明確な指揮命令系統が存在しなければならない。トップの判断と、その判断を実行する現場。それが組織だ。もしトップの判断をサボタージュする箇所がどこかに存在したら、組織は成立しない。単なる烏合の衆である。善かれと思った行為だとしても、組織の一員である以上トップの命令には従わなければならない。逆らうなら、組織からは離脱すべきである。もちろんトップも間違うことはある。しかしそのトップをトップに選んで、その組織は動いているのである。結果的な失敗の責はトップが負うのであり、現場はトップの決断を実現するために全力を挙げるのが、組織のあるべき姿だと思う。

 最近大阪府の君が代問題も話題になった。公立学校の教師が行事で君が代斉唱する際に起立を義務づけるという条例を決めたという。個人の信条はいろいろあるだろう。有って当然だ。しかし、これは組織である。組織の行事である。君が代という歌が持つ意味について様々な考えがあるのは知っている。だがその是非をここで問うつもりは無い。これはひとつの問題に過ぎず、その他の問題についても、トップの決定に従えない現場は、既にその時点で組織の一員としての資格を失っている、というか放棄しているというべきだ。自分に強い信念があるなら、個人塾を開いてそこで考えを伝えていけばいい。私立学校を創立して、自分の理念に基づいた教育をすればいい。そこまでいかなくても、組織自体を替えるための動きをすればいい。それもせずに単なるサボタージュをするのなら、それは単なる甘えだし、我が侭にすぎない。

 では、単に上の顔色を見てそつなく動くだけでいいのだろうか。そういう問題は必ず起こる。自己の営利のみを追求する組織であればそれも良かろうが、公的な責任を負う組織の場合は単に組織のみで存在するのではなく、その行為の正否が組織外に対しても大きく影響を及ぼす。冒頭の吉田所長の件もそうだ。もしも彼が単なるイエスマンで、注水を中断してしまっていたら福島原発はもっと大きな爆発を起こしていたかもしれない。放射性物質は今の何倍も多く、そして遠くまでまき散らされていたかもしれない。そういう意味では、公的な組織の一員は時に組織を超えた判断が必要な時もある、という論理も成り立つのかもしれない。

 だが、しかし、やはりそれは組織論としては間違いなのだ。

 今の日本は、政治家ではなく官僚が動かしていると言われている。それは確かにそうだろう。特別に専門分野を持つことの無い政治家と違い、その道一筋に仕事をしてきた官僚はプロフェッショナルである。そういう人から見ると政治家は馬鹿にしか見えないだろう。どうせすぐに交代してしまう馬鹿政治家の思いつきになんて従っていられるかと、自分たち独自の政策を打ち出す。もちろん政治家を無視する訳ではない。しかし、自分たちの考えと違う政治家の指示には動かないという方法で実現を阻止するし、政治家がアイディアを求めれば自分たちの考えに沿ったアイディアのみを提示するし、結果として、自分たちの思うような政策を推し進めるためにしか動かない。これではいくら民主主義で国民が国の在り様に関心を持っても、その思いは反映されない。民主主義を阻害するのは、公僕であるはずの官僚なのだ。それは組織としてやはり間違いだと言わざるを得ない。たとえプロフェッショナルな官僚の知見が高かろうと、民主主義を是とする限りは、主権者は国民であり、国民は自らの考えを実現させるために投票を行ない、投票によって選ばれた政治家の合議によって国の方針が決まり、その方針を実現するために滅私奉公の精神で官僚が働く、そういうことでなければならない。それがイヤなら、独裁政治を良しとしなければいけない。優秀な官僚が愚劣な政治家に逆らうことは、やはり民主主義という大きな組織論の中では絶対に許されることではないのだ。たとえ経済的な危機などの可能性を目の前にしたとしてもだ。

 もう1つ。赤十字に集められた義援金が全体の15%しか被災者のために使われていないという問題がある。もう3ヶ月も経つというのに、多くの人たちの善意はこの処理の遅さによって完全に無駄になってしまっている。なぜこんなことになっているのか。これにも組織論が絡んでいる。善意による貴重な金だ。だから疎かにはできない。公平に支出しなければいけない。だから「公平」さを期すために証明書を基本にするというのだ。もちろん偏りがあってはいけない。だが、それを重視するあまりに困窮している人の首を絞めるようになってしまったら元も子もないのだ。いつになるのか判らない公平さの追求を待つより、赤十字のスタッフが東北の避難所に行って一律の金一封をバラまいてくればいいじゃないか。全部とは言わない。しかし義援金の50%くらいはそうやって配ってみれば、「公平じゃない」というクレームが起こるだろう。その時にそういうクレームを見ながら、残った50%を改めて配分していく際に公平さを追求すればいいだろう。義援金を出した個人の思いというのは、テレビに映る悲惨な状況を見て、居ても立ってもいられずになけなしの金を募金箱に入れたのだ。公平を求めて逡巡するのなら、最初からそんな組織に募金なんてしない。

 では、赤十字の職員が勝手に金庫を開けて、自分でクルマに積んで東北の各地を回ってバラまいたとしたらどうだろうか。それは必ず糾弾されるだろう。その方が募金した個人の気持ちに沿っていたとしても、いくら善意から出発した行為だったとしても、そんな行為が許される訳は無い。なぜなら、その集められた義援金を一職員が自由に扱う権限など無いからである。もしもやったら確実に横領の罪に問われるだろう。権限の無いお金を勝手に使うことは犯罪である。それは、権限の無い勝手な行為をトップの支持に逆らってする(あるいはサボタージュする)ことと同じことだ。組織論としては、権限の無い行為は全て許されるものではないのである。

 でも、そういう善意の個人の行動は多くの人に支持されたりする。なぜか。それは組織の決定や行動が間違っているからである。東電のトップが行なった「注水を一時中止」という決定には誤りがあった。現場というものを知らない甘い判断だった。だから、それに逆らった吉田所長のとっさの判断に賞賛が集まる。赤十字の問題もそうだ。もしもトップが覚悟を持って記者会見をし、義援金配分について「多少の不公平は生じるかもしれない。しかし躊躇しているヒマなどないのです。集まった義援金の半分をまず100台の車で東北の避難所を回って配ってきます。問題が起きたら全て私が責任を負います」と宣言すれば、多くの賞賛を得られただろうし、助けられた避難者も多かっただろう。

 組織の一員が逸脱した行為を行なうとき、それを安易に賞賛するのは危険なことだ。しかしそれは、その組織の決定に対しても言えることで、トップの決定が全て正しいという前提に無批判に拠って立つことも愚かなことだと思う。トップの決定はとても重く、組織の一員が軽々しくそれに逆らうなんてことが出来ないのは、結局はその決定にトップ自身が一人で責任を負う覚悟があって初めて成立するルールなのだ。

 そう考えた時、僕は前述の官僚への批判はどういうものであるべきかということを考えてみるのだ。国家の主権者は国民である。民主主義はそう規定したシステムなのだ。ということは、責任を負うべきトップとは、内閣総理大臣なんかではなく、国民一人一人ということになる。官僚がそのトップの決定(投票行為)に逆らって独自に政策を立案推進することは、トップたる国民に対する重大な犯罪といえるだろう。だが、それを批判するためには、国民一人一人が自分の責任を一度考える必要があるだろう。現在の政権をどういう気持ちで選んだのか。自民党と民主党の政策をちゃんと較べたのか。その上で選ばれた民主党はその後国民との約束をどうしたのか。菅直人の演説をちゃんと聞いたのか。小沢一郎の演説をちゃんと聞いたのか。その上で、菅直人が素晴らしいと思ったのであれば、その責任は国民が負うべきだろう。どんなに国が誤った方向に向かったとしてもそれを受け入れるべきだろう。

 しかし、民主党の現在の執行部は国民との約束を次々と反古にしていった。民主党が参議院で過半数を取った選挙では小沢一郎が代表だった。衆議院で大勝した選挙では鳩山代表で小沢幹事長だった。いずれも国民の生活が第一という主義を掲げた。しかしその後内乱のように現在の執行部が民主党を乗っ取り、選挙で支持された約束を反古にし、先の参議院選挙でその方針が主権者である国民に否定されたにも関わらず、責任も取らずに今も権力の座にある。これこそ、民主主義の否定であり、主権者である国民が自分の選択に責任を持てない社会状況を生み出している元凶なのだと思う。

 今、菅総理に退陣を要求している声のほとんどは、震災対応のマズさを理由にしているようだ。しかし、本当の問題はそこではない。彼及び現執行部は国民が支持した政策を否定し、国民が支持しなかった政策を遂行しようとしているのである。その反民主主義的な思い上がりが、社会を揺るがす大きな問題であり、その点を指摘しない退陣要求には何の意味も無いのである。そんなことでいいのだったら、まさに「誰がやっても同じ」だろうし、国民と政治の乖離は底なしに広がっていくことだろう。

 僕ら国民は一度冷静になって、自らの「トップ」としての責任を自覚すべきだろう。そうでなければ、東電のトップが「注水作業一時中断」といった愚かな決定を下したように、また赤十字のトップが無責任にも早急配布のための決断をなんら下さずに事態を悪化させているように、僕ら自身が愚かなことを繰り返してしまうのだろう。そして日本という大きく貴重な組織をクズへと変えてしまう。僕らのその責任はとても重いのだ。