Monday, June 27, 2011

漂流感覚

 土曜から東京へ。今日で3日目。次の土曜日まで東京に滞在予定。26年間暮らしていた街なのに、すでによそ者感覚。

 この感覚は、海外旅行から帰って来たときの異邦人感に似ている。成田からスカイライナー経由で、山手線の車両に乗り込んだ瞬間に感じるあの感覚。自分が過ごした数日とは違う数日を暮らしていた人たちがここにいる。そこにまぎれて、自分はどんな風に見られているのだろうか。それが自分の勝手な思い込みであることは重々承知だ。ずっと東京にいたところで、山手線に同乗している人たちとは所詮別の暮らしなのだ。でも、感覚に嘘はつけない。ずっとこの街にいる人と、いなかった自分と。その違いは感覚の中で壁を作る。

 生まれ育った福岡に行く時もそうだ。福岡空港に降り立った瞬間に味わうよそ者感覚。僕の博多弁は、自分では今も通用すると思っているけれど、26年の東京暮らしで変容していることは間違いない。最近はそういうことも少なくなったが、学生時代に帰省した際、地元の友人たちから「うわー、標準語喋っとう、つやつけとう〜」とからかわれた。東京では方言丸出しだと半ば揶揄されているその似非標準語で。

 では、今僕はどこでならよそ者感覚を感じずにいられるのだろうか。住民票がある京都か。いや、違う。数年経てば地元感覚になれる可能性がないわけではないだろうが、それでももう僕に地元なんて場所はないんだろうと思う。自分にとっての居場所は、土地ではないんだろう。今いる場所、そこを自分の居場所として受け入れるしか無いのだろう。この瞬間なら、東京銀座のスタバ2階だ。ここでブログを書いている。書いて、アップしたらまたどこかに出かけていく。その瞬間に、ここは僕の居場所ではなくなる。

 居場所というのは何なのだろうか。東北で津波被害に遭った人たちが、一面瓦礫となったその土地で、また再起を誓っている。福島で父祖伝来の土地に放射能物質をまかれ、それでもそこに戻りたいという。何故と思うが、それが普通の感覚なのだろう。僕にしても「もう僕に地元なんて場所はないんだろうと思う」という表現を使うこと自体、地元というものへの憧れが根底にある、そのことを示しているのだ。無くなって良かったではなく、有る者への憧れのような気持ちで。

 だが、居場所というのがなんなのか。単一の意味ではないはずだという思いもある。不動産としての動かない地点という意味合いとは別に、安心できる場所という意味。それが居場所というのなら、今の僕には奥さんがそれなのだろう。今回の東京は2人してのケチケチ旅行。深夜の高速バスで移動し、友人宅の離れに身を寄せている。テレビも無く、毎晩銭湯に通うという、なんとも昭和な雰囲気の数日を過ごしている。だが、2人ならそれも悪くないと思う。そもそも京都に2人で移住し、周囲に友人も居ない中での暮らしだ。それでもやっていけているのは、2人でいるからだ。独身時代が長かった僕がこんなことをいうのを信じられないという旧友も多かろう。でも実際にそうなのだから仕方ない。仕方ないというか、それで良かったと思うのだ。



 いろいろ書こうと思ったが、そして実際に書いてみたけれど、止めた。結構消した。何か確定的なことを書くには、この漂流感覚はあまりにも安定していないからだ。これからもしばらくはこの人生が続くだろうが、その間に、またどこかで自分の居場所と思える場所が出来れば、それはそれでいいと思うし、出来なかったからといって落胆する必要も無いだろう。当面は奥さんと2人でいるという、自分が安らげるところを大切にしていければいいからだ。それは、福岡でも、京都でも、今週いっぱい過ごすこの東京でもないし、逆にいえばそのどこでもいいのだろう。