Wednesday, August 10, 2011

届かぬ声

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 京都の五山の送り火で岩手県陸前高田の松に被災者の祈りを書いて燃やすということが話題になった。放射性物質が飛散するのではないかという懸念の声を受けて、送り火保存会の人たちが燃やすことを断念したということだった。

 これに対して抗議の声が起こった。陸前高田の松に放射能物質はついてないよと。それなのに燃やすのを拒否するなんて、被災者の気持ちをまるでわかっていないと。テレビなどでも中止決定へ批判的な調子でのニュースがたくさん流された。

 僕はこの騒動で強い違和感を覚えたのだ。それは個人の自由への強い圧力。政府が個人を弾圧するという時は、それが国家保安上の問題であっても、多くの人が個人の自由を最大限に尊重しろと叫ぶ。しかし、今回のように被災者の思いをきっかけにした場合は、個人の自由を尊重すべきという声が起こらなかった。それが、恐いなと思ったのである。

 もっと具体的に言うべきだな。

 放射性物質が松に含まれているのかいないのか。それを完全に明らかにするのは可能なのだろうか。保存会でも京都市でも測ったという。ではその測定方法はどういうものだったのだろうか。その点について詳しく報道されていたわけではない。そういう状況で、完全に安全宣言を出せるのだろうか。それですべての京都市民の安心を得ることは出来るのだろうか。すべてのと言うのは、松を燃やすということは、その煙は空中に広がるわけであり、市民は安心不安に関わらずその空気から逃れることは出来ないからである。

 これを牛肉と比較すればもっと判りやすいのではないか。牛肉も汚染されているという。しかし市場に出ている肉はすべて安全が確保されている。と、政府は言っている。政府が言うのだ。もっとも信頼を置くべき組織が言っているのだ。でも、それが信じられない状況が現在の日本である。もちろん大丈夫だという人もいる。同時に不安を拭えない人もいる。大丈夫と思う人は普通に肉を食えばいい。そして不安に思う人は不安な肉を避け、海外産の肉を食うか、しばらく肉は食わないかすればいい。その選択はそれぞれが個人の判断で行なえばいいのだ。その自由はある。そして肉を食わないことで栄養が偏ったり、海外産の肉にあるかもしれない危険のリスクを負ったり、そういうのも個人の責任として納得すればいい。もちろん安全だと思った肉が実は危険で、数十年後に健康被害が出たとしても、そのリスクも個人の責任で納得すればいい。

 しかし、もしも不安に思っている人に誰かが「安全だから食え」と言って無理矢理口に入れたらどうだろう。だって政府が安全だと言っているのだ。だから食わないのは風評被害だと言って無理矢理食わせることが出来るのか。たとえ「福島の畜産業者の苦しい思いを理解しろよ」と言われたところで、それは安全かどうかという問題とは別に検討されるべき話であって、安全だと心から信じられない気持ちのまま、強制的に食わされるのは、完全に個人の人権侵害だし、自由の剥奪である。そういうことが実際に福島などの給食で、小学生たちに対して行なわれているというのだから恐い。

 話を戻して京都の送り火。それが安全だという証明がどうなされたのかということは、ある意味政府発表の市場の肉は大丈夫宣言と同じようなものだと思う。安全の度合いはこの際問題ではない。それで不安が解消されるのかということが問題だ。それで全京都市民が納得するなら別だが、納得しない人がいる状況で強行するのは、肉を「大丈夫」といって無理矢理食わせることと基本的になんら変わらないことだ。

 安全と安心というものは、似ているようで違うものだ。例えば、僕らは普通に飛行機に乗る。だが、世の中には飛行機が恐くて恐くて仕方がないという人は確実にいるのだ。あんな鉄のかたまりが空を飛ぶなんて信じられないという人。実際には鉄のかたまりは空を飛ぶのだ。僕は安心してそれに乗る。しかし、恐くて仕方がないという人を無理矢理乗せようとするのは間違っていると思う。

 さらに言えば、バンジージャンプはかなり安全なアトラクションだ。それで死んだ人は交通事故よりもはるかに少ない。しかし、僕はバンジージャンプなどしたくない。恐いからだ。あんなことをやるなんて、いくら説得されてもイヤだ。もしも無理矢理僕を押さえつけてバンジーの台から落とそうとする人がいたら、絶対に告訴するくらいの悪行だ。

 だが、その時に「被災者の思いを無にするのか」といわれたらどうだろう。

 今回の問題は、そういうところにあると思う。個人が安心出来る根拠というのはいろいろとある。ある人には何の問題もないことが、別の人には大問題ということはよくある。それを放射能測定をしたからというだけで解決しようというのは心の問題をあまりに軽視した物言いだと僕は思うが、それで解決出来ないときのさらに一押しとして、「被災者の思い」というものが利用されているように、僕は感じたのだ。この言葉を使われると、ほとんどの場合反論が困難だ。だって被災者の思いは十分に判っているのだから。

 テレビのニュースでは数人の京都市民にインタビューをしていた。全員が「放射性物質がないなら燃やすべきでは」と語っていた。彼らがその言葉を発する前に、テレビ局の人はどう話をしていたのだろうか。はっきり言えることは、夜のニュースで話題になっていたのだから、その日の日中に街にいる人が放射性物質の云々ということについて情報を持っているとは思えない。だとすれば
「今回の送り火で、津波被害者の思いを書いた松を燃やすということに対して、放射性物質の危険があるのに燃やすのかという抗議があって、その松を燃やすのをやめることになった。それに対して岩手の被災者は悲しいことだと嘆いている。そして放射性物質は測定したところ検出されなかった。それを前提に、あなたは燃やした方がいいと思いますか、燃やさない方がいいと思いますか」
という問いかけをしているはず。まともな感性を持った人なら、そう言われて「被災者の気持ちなんて知りません」とはとても言えないだろう。言えるわけがない。

 僕はそれが同調圧力だと思った。

 意見が分かれそうな問題に、絶対に意見が分かれない問題を絡めて是非を問う。そうすると、本来意見が分かれる問題もひとつの方向に収束せざるを得なくなってしまう。そしてある一定のマジョリティが形成されると、マイノリティがマイノリティであるが故にマジョリティの方へ擦り寄っていかざるを得なくなるし、それでもマイノリティのままであろうとする者は「おかしな人」「論理が通用しない人」として排除あるいは無視されていく。これは恐い。そういうことが突き進んだひとつの結果が戦前の教育だ。そして、我が子が戦争で死んだ時に万歳を叫ぶ母親が生まれてくる。心の中では悲しんでいたとしても、社会の中では喜ばなければいけない風潮が蔓延していくのだ。

 まあ今回の問題が即そこまでの危険につながっているとまでは思わない。陸前高田の松もそんなに危険というわけではないのだろう。だが、こういったことの中に、本当は危機意識を持って対応するべき問題の芽が潜んでいるように思った。


 そして今日のニュースで、結局京都市の要請を受けて、陸前高田の松を新たに500本京都に運び、16日に燃やすことを決めたそうだ。何なんだろう一体。その松には陸前高田の人たちの祈りの言葉は書かれていないのだ。それを燃やすことにどんな意味があるのか。被災者の思いはどこに行ったのだ。結局はその松を京都で燃やそうと思いついた誰かのメンツを立てたということだけなんじゃないだろうか。京都市が執拗にこの松を燃やしたかったのは一体なんなんだろうか。結局は被災者の思いなどどうでも良かったんじゃないだろうか。

 それでも祈りが込められていない松を燃やすという逆転決定に、昨日まで悔しい思いをしていた人たちはどう思っているのだろうか。そして安全と言われてもなお不安を感じ続けている人はどう思っているのだろうか。もしも燃やすべきと思っていた人たちが今回の逆転決定に快哉を叫んでいたとすれば、それは結局自分たちが感じていた辛い気持ちを今度は別の誰かに強いているんだということに気がつかなければならないだろう。日本全体が被災者であり、ある地域にいる人の辛い思いが、別のある地域にいる人の辛い思いを虐げていいという理由などどこにもないのだから。