Monday, January 30, 2012

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ネットでこういう画像を見た。



 「右でも左でもなく、前を選ぶ。」

 素敵なコピーだ。本当に素敵か?だが、心に引っかかったのは事実だ。今度の日曜日が京都市長選挙だ。京都は伝統的に革新が強い地域で、現在も市議会の第2勢力は共産党だ。昔は、京都の人たちはそんなに共産党に票を投じるなんてバカじゃないのかと思っていた。まだ自民党が最強だった時代のことである。

 しかし今、自民も民主もこの体たらくという現実を目の前にして、京都に越して来て始めての選挙で僕はどうすればいいのか正直戸惑っている。今回の選挙ではいずれも無所属といいながら、自民・民主などの推薦を受けた候補と共産の推薦を受けた候補の一騎打ちとなっている。僕の中には共産へのアレルギーがある。冷戦時代に青春時代を送った世代には結構共通する感情なのではないだろうか。まあ他人のことはさておき、僕自身にはそういうものがある。紛れも無い事実だ。そんな僕が、自民民主推薦の候補と共産推薦の候補が出ている選挙で、なぜ悩まなければいけないのか。そのことに強い憤りを覚えてもいる。なんでだ。なんでなんだ。

 そんなところに「右でも左でもなく、前を選ぶ」である。これには正直ガツンとやられた思いだった。

 門川氏という人と、中村氏という人と、その人物のことなどはほとんど知らない。知っているのはどこが推薦しているのかということだけだ。それで選ぶということは、冷戦以前のイデオロギーを選ぶということに他ならない。ベルリンの壁が崩壊して20年以上が過ぎているというのに、それなのに僕らの多くは東西冷戦のイデオロギーを軸にして何かを決めようとしている。本物の壁はとうに崩壊しているというのに、僕らの心の中にはまだ固くてしぶとい壁が立っているのではないだろうか。恐ろしいことだ。だが、三つ子の魂百までだ。なかなか変わらない。そう簡単なことではないのだ。だから悩む。20年以上前の価値観と、現実の目の前の出来事。それが交錯する時に、なにを選ぶべきなのか、何を捨て去るべきなのか。簡単なことではない。口では守旧派とか既得権益打破とか言っているくせに、心の中の価値観はそう簡単に変わるものではないのだ。

 そんなところに「右でも左でもなく、前を選ぶ」である。このポスターは京建労左京支部というところが作ったものである。ここのHPを見ればわかる通り、この団体は中村氏を支持しているようだ。このポスターには誰に入れろとか書いていないし、そもそもどこが作ったポスターなのかも書いていない。投票へ行こうU45プロジェクトとだけある。現在多くの選挙で、年寄りはほとんど投票して若者はほとんど投票しないという傾向が強い。そういう傾向によってどの党が有利とかどの候補者が有利とか、そういう傾向も分析によって顕著に出る。だから中村氏を応援する勢力にとっては、若者の投票率が上がることが有利に働くという分析結果が(僕には正確なところはわからないけれど)あるのだろうと思うし、だからこのようなポスターやキャッチコピーが展開されているんだろうと思う。

 以前なら、姑息だなと思ったりもしただろう。しかし、今回ばかりはそれを姑息などと思わない、思えないのだ。なぜか。それは国民が投票に行くのは至極当然のことだし、理想としては全有権者の投票によって出た結論が民意であるし、だから一人でも多くの人の投票を呼びかけるのはまったく正しいことだからだ。そして、20年遅れの右対左というイデオロギーを軸に未来を語ることもまったくのナンセンスなのだ。そのことを呼び起こしてくれるこのポスターは、実に清々しい気持ちにさえさせてくれるものだったのだ。

 前回の衆議院選挙では、僕は東京1区の有権者だった。民主・海江田万里vs自民・与謝野馨の選挙区だ。結果としては海江田万里が当選し、与謝野馨は比例で復活した。しかしその後与謝野は自民を離党し少数政党に参加し、あろうことかそこも離脱して菅内閣で大臣になった。海江田も与謝野も大臣だ。では東京1区の有権者は何を選んだのだろうか?選択権など無かったも同然ではないか。そんな姑息な政治行動をたくさん見てきた。その結果こういう時代の絶望的な状況が広がっている。

 冷戦イデオロギー時代に盛んに言われてきたのは、共産党や社会党に政権を渡したらソ連のような社会主義国家になる、全体主義国家になるというものだった。それは恐ろしいなと思った。秘密警察にシベリア送り。ソルジェニーツィンの本を読んだだろう。自由なんて無い社会になったらおしまいだと思った。だが、ソ連は崩壊した。で、日本は世界でもっとも成功した社会主義国家と揶揄されるようになった。あれだけ左翼批判していた自民党が社会党党首を総理大臣に担いだ。秘密警察なんかではない、日本の司法制度が決して公平公正ではないということも周知の状況になった。鈴木宗男も収監された。ホリエモンは今も塀の中だ。小沢一郎起訴され係争中である。僕らは何のために共産党を恐れ、アレルギーを抱えていたのだろうか。その代わりに選んできた政治は何を僕らに与えてくれたのだろうか。何のためだったんだろうか。

 ちょっと前の大阪市長選。橋本市長が当選したわけだが、橋下氏が優れているのかどうかはまだ判らない。だが、前に行こうとしているのはよくわかる。激しい非難やスキャンダルまで登場して彼の当選を阻止しようとしている勢力があるのも知っている。僕が思うに、彼らは前に行ってもらっては困ると思っているんだと思う。前に進むというのは、未知の世界に進むということである。それは誰もが恐い。先日の朝まで生テレビで橋本市長と対決していた人たちの話を聞いていると反吐が出た。要約すると「大阪は東京と競争なんてしたら疲れるから止めておこう」である。なんだそれは。そうして停滞すればいいと思っているのか。それでは確実に日本は沈む。そんなことでいいわけがない。今の悪い何かを改善していかなければ、多少の痛みを伴ってでもそうしなければ、この社会は腐るのだ。もちろん一歩前に何があるのかなど誰にもわからない。橋下氏の描く未来が誰にとってもバラ色であるわけが無い。それでも進まなければ仕方ないのだ。民主は小沢氏の動きを封じて官僚の言いなりになりこれまでの社会を維持しようとしている。自民は単に民主の反対をしているだけで何のビジョンも示さない。もうそんなのにはうんざりなのだ。そこに出てきたのは前に進もうというタレント弁護士だ。タレント議員に将来を賭けるのが不安でないはずがない。それでも、前に進むという選択肢を僕らに突きつけているのは彼しかいないのだ。だから彼を選ぶしかないというのは必然でもある。それを本当に危惧する人は、彼の足を引っ張ることではなく、彼を超える明快なビジョンをもって対抗する以外にはない。だが、政治のプロフェッショナルである人たちが軒並み対立候補の陣営を押した。徒党を組んで反対に回り、これまでのやり方を踏襲するのがいいと言った。これでは闘えないよ。仮にその結果がファシズムになったとしても(絶対にそうはならないと確信するけど)、ファシズムに導いているのは単に橋下氏の維新の会だけなのではない。それへの明確な対抗軸となる「前へ」向かったビジョンを示せない既存政党にもその責任の一端はあるのだ。

 来週の京都市長選に戻るが、過去の歴史でも10年を超える革新系市長がいた街で、今回対決する右対左。そこに維新が候補を出していたら間違いなく雪崩を打っただろう。しかし現実はそうではないのだ。やはり右対左が対立する今回の選挙で、僕はいくつかの公約を見ながら、自分なりの答えを出そうと思う。今、いくつかの論点において後出しでそのことを言い出したとかいう感じの論戦になっているようだ。先に言った後から言ったという問題は確かにある。だが先に言ったからといってそこに実行力があるのか、それが問題になる前からの持論だったのかなど、単純に言葉だけで信じられるわけではない。マニフェストとやらがいかに簡単に反古にされるのかはこれまでの経験で嫌という程思い知らされてきている。だから簡単に言葉の上っ面で選ぶということではないよ。簡単じゃないね。でも、それでも僕らは何かを選ばなければいけないのだ。選ぶということで、次の発言権をようやく得られるんだと思う。そうじゃなければ、この街が、この国が、どのようになったって文句など言えない。白紙委任した人に発言権なんてあるわけがないのだ。

 だから、僕は何かを選ぶよ。それは古くさいイデオロギーなんかを振り払った現代の価値観で、右でも左でもなく、前を選ぶということだ。100%の前進でなくても、ちょっとだけでも前に進みそうな何かを。このポスターを作った団体の思惑に載せられることも無く、でもこのポスターにあるキャッチコピーの精神だけは尊重しながら。