Friday, January 27, 2012

土地に縛られるということについて

僕はこのテーマについてこの半月ほどいろいろ考えて、何度か文章を書いては途中で違うなと感じ、自分の文章力の無さに、そして自分の考えを整理する力の無さに、ほとほと愛想が尽きかけている。だがきっとそんなに簡単に納得できる文章になるとは思えないし、それにばかり拘泥していても前に進めないので、とりあえず書き終えてみたいと思っている。だから、いい加減で中途半端なことになってしまうだろうが、それは仕方のないことなのだ。そのことを予め断っておきたい。反論やツッコミは多いに結構。ただ、突っ込まれたところでちゃんと返す自信などさっぱりないんだということは、断っておきたい。


 さて、どういうことかというと、福島での放射能汚染のことだ。僕ははっきりいってあの場所で生活をするのは危険だと思っている。その福島の人たちには同情の念を持つものの、じゃあ何が出来るのかというと何も出来やしない。自分のことで精一杯だというのが正直なところだ。このことを言っておかないと、何を言っても空言のように自分で感じて、それで文章は止まっていたんだと思う。

 で、福島が危険だと思いながらもそこに住んでいる人たちというのは沢山いるんじゃないだろうかと想像する。その人たちはいろいろな理由で移動できずにいるのだろう。仕事の問題、経済の問題ももちろんあるだろう。それ以外に、土地というものの魔力もあるんじゃないかなと、僕は感じている。

 福島以外の人たちが、福島の人を支援したいと言っている。その支援の仕方は様々だ。作物を食べて応援、産物を買って応援、除染で応援、寄付で応援、いろいろだ。本当にいろいろだ。僕なんかが把握していない方法もきっと沢山あるだろう。だが、福島の人が他所に移り住んだとした時に、その場所は彼らを受け入れるのだろうか。いや、それはかなり難しいのではないだろうかという気がするのだ。

 受け入れるというのは、単に住ませてくれるかどうかではない。そこで生きていくための、コミュニティに参加させていくかということである。知らない土地にいけば、土地勘もないし、言葉も違う。基本的な生活をするための基本知識が決定的に欠けている。友人だっていない。そういう人が自分の街にやってきた時に、孤独を感じさせず、疎外感を感じさせず、スムーズに社会に溶け込んでいくための配慮ができるのかということだ。「軒先に住みな、その先は勝手に努力しなよ」というのでは、生きるための条件にハンデがある。

 これは結婚なんかにも似ていると思う。子供が結婚した時に、親はどういう態度を取るべきなのか。娘に旦那がやってきた時に、その旦那を「娘の旦那」と捉えるか、「自分の息子」と受け入れるか、それによって親子関係はまったく変わってくるだろう。娘の旦那と思っている間は、まだまだ受け入れていないのだと思う。自分の子供なら、多少の欠点どころか大きな問題を抱えていても自分の問題として一緒に悩めるだろう。しかし娘の旦那と思っている間は、大切な娘を幸せにしてくれる完璧な存在でなければ許せない。その差は紙一重のようで、実際は宇宙の果てくらいに遠い距離だ。もちろん娘の旦那としては欠点のない完璧な旦那になれるように努力すべきだが、いくら努力しても人間は完璧になどなれない。その僅かな瑕疵を批判されるようでは、やはり親子関係はうまくいくはずなどない。土地が他所者を受け入れるというのは、東京のように街全体が無関心の街になるか、そうでなければ他所者をその街で生まれた人と同じとして受け入れるかどちらかだ。大都会東京でなければ前者になることは不可能だ。だとすれば、後者以外には有り得ない。それは実はとても難しいことなのだと思うし、今僕らが絆なんて言葉を簡単に使うのであれば、その難しいことを覚悟していくより他にはないのだと思う。

 平時であったら好きなところに移住するのは個々人の勝手であるから、慣れない土地に順応する努力は各自が行なうべきである。しかし、今は平時ではない。では数百万という人たちが福島を離れてきたとして、自分の街にやってきたとしたら、その時に自分たちは街を挙げて受け入れることが出来るのか、その覚悟があるのか。それは、どの街にもきっとないのだろうと思う。食べて応援は、今居る場所でこれからも作物を育ててねということである。産物を買って応援は、今居る場所でこれからもものを作り続けてねということである。汚染されたその場所でこれからも暮らしなさいである。異論が沢山あるのは承知だ。僕もそれほどに原理的にこのことを言っているのではない。しかし、根本的にはそういうことがあるのではないかということは、実際に思っている。火事が起きている家の人に消化器を送ったりするのは、それで消せよということであって、逃げろではない。燃えている工場の従業員に「製品を買うから頑張って」というのもやはり「逃げずに物を作り続けろ」である。安全な場所に避難しろではけっしてない。

 火事が起きている家の人には、とにかく今は逃げろというべきだと思っている。その家には思い出がたくさん詰まっているだろう。子供の身長が刻まれた柱があるだろう。先祖の仏壇があるだろう。記念写真も沢山あるだろう。それらがすべて燃えたとしても、人の命が優先だ。それを取りに炎の中に飛び込もうとする人がいたら、羽交い締めにして静止するのが誠意だ。大津波で仏壇の位牌を取りに行った人がどうなったか、僕らはみんな知っているはず。だが、放射能汚染についてはなかなかそういう世論にはならない。むしろ火の中でも暮らせるように防火の服を送りますよっていう印象だ。

 なぜか。それは僕らが今燃えている家の住民を自分の家に避難させる覚悟など持ち合わせていないからだ。

 あくまで、放射能汚染は福島だけのことだと思って、あちらの火事、こちらは燃えていないと理解している人がいる。その一方で、汚染は福島に留まっているのではない、すでに今この場所も燃えているのだと理解している人もいる。そういう理解の違いが、人々に対立を生んでいるように思うのだ。

 先日、僕は知り合いに自分の食べようとしているものを勧めたことがある。僕自身はかなり食べ物にも気をつけている方だと思っている。だから自分の食べているものはかなりの確度で安全だと思っている。しかし、その人は怪訝な顔をした。安全だとは思っていなかったのだ。その時に、僕はかなりハッとした。これが、理解の違いなのだ。

 僕の基準では、それは安全な食べ物だった。しかし、その人にとっては不安な食べ物だったのだ。僕はその怪訝な顔を見て、一瞬ムッとした。自分自身が信用されていないような気分になった。しかしすぐにそれは違うんだと思った。なぜなら、安心を感じる基準や情報というものは人によって全部違うからだ。僕が食べない食品を食べている人もいる。その人は僕の態度にムッとするのだろう。なんてやつだと思うのだろう。思われたからといって、自分がそれを食べるつもりもないし、義務もない。自分は自分で考えて行動するしかない。強制される謂れなどはまったくない。だとしたら、別の誰かが自分が食べているものを食べようとしないからといって、そこに対してムッとするのは完全に間違いだ。だがそういう体験を身近な人との間でしないとそのことがわからない。わからないと、結果的に間違った行動や態度を取ってしまう。取った後もまだそのことが間違いであることにさえ気付かずにいる。それが、覚悟のない状態なのだと僕は思う。いろいろな人の多様な価値観を認めるというのは、ともすれば自分の価値観を否定することにもつながるような錯覚を覚える。だから難しいのだと思う。

 絆は、いい。だがそれが多様な価値観の存在を互いに認め、それぞれが尊重し合っていくということをすべて取っ払って、たったひとつの価値観をすべての人に強制するようなことであったなら、それはやっぱり間違いなのだと思う。もちろん情報の不足によって誤った判断をしてしまうことは誰にもあるし、それは価値観ではないから話し合うことで共通理解を深めればいい。黒いものは黒いもの、白いものは白いものでいいのだ。しかし、最後の最後で個々が価値観によって判断すべきことというのは絶対にある。この犬が可愛いか可愛くないのかは判断である。ジェットコースターが恐いのか恐くないのかは判断である。安全とは別の恐怖というものがあって、恐怖するかどうかは個々の自由だ。それをも強制するのは、もはや文明社会のやるべきことではない。絶対に違う。

 
 結局、何が何だか判らなくなってきた。この半月ほどこういうことの繰り返しである。でも続けよう。そしてそろそろまとめよう。次に進むためだ。


 先日、あるつぶやきが目に入った。「「福島と東北だけ勝手に滅んでください」にアカウント名を変えたらどうですか。」というものだ。それなりに著名な編集者のツイートだ。瓦礫の処理を全国の自治体が受け入れていることに懸念を持っている人の「日本国土全体、日本人全体に放射能のリスクを均等に被れということでしょうか?乱暴では?」という言葉に反応したものだった。

 どうしてこんな対立が生まれているのだろう。僕はそのことが気がかりなのである。

 処理すべき瓦礫は福島のものだけではない。むしろ岩手や仙台の海岸近くでの瓦礫が問題になっていて、多くは放射能汚染されているわけではない。だから安心だと多くの人がいう。それはその通りだと思う。しかし、では100%安全なのかというと、その保証はどこにもない。だから多くの人が反対しているのだ。処理場で燃やすと濃縮され、放射性廃棄物になるという。関東の処理場でもそういう廃棄物が溜まって、どこにも持って行くことが出来なくなって、今後処理を続けることも難しくなっている施設があるという。そういうニュースを見るにつけ、関東でそれなら、瓦礫がそうじゃないと誰がいえるんだという不安は当然のことだろう。燃やして、廃棄物はどうするんだとか、煙となって漏れるんじゃないかとか、不安は多い。

 それでも瓦礫はどうにかしなければいけないのだろうし、だから全国の自治体が処理を引き受けるということなのだろう。それを拒否する人に対して、件の「「福島と東北だけ勝手に滅んでください」にアカウント名を変えたらどうですか。」という発言につながるんだろうと思う。要するに、その編集者は「瓦礫を福島と東北に押し付けるな」ということなのだろうと思う。だが瓦礫を懸念している人たちは「瓦礫を全国に押し付けるな」ということで懸念しているのである。要するにどちらも同じ。どちらかが正しくてどちらかが間違いなのではない。事実認定ではなく、価値観でもなく、それ以前の、堂々巡りに過ぎない。それが起きているのは、福島という土地を福島の人だけのもので、福島の人は福島という土地にしか住んではいけないという固定観念があるからなのではないだろうかと、僕は思うのだ。

 ある家が火事で燃えたら、そこの住民を隣の家の人が助けてもいいだろう。地震で多くの家が倒壊したら、地域の体育館に避難して、自治体がサポートするだろう。では県単位で被災したら、そしてその被災は簡単に元に戻る種類のものではなかったら、その人たちはどこでサポートするべきなのか。僕は、それは日本全体で引き受けるべきだと思うのだ。瓦礫を受け入れて全国的に汚染を広げるのではなく、今福島やその他の汚染が深刻な地域にいる人たちを、安心してくらせる場所に受け入れるということ。それが簡単じゃないのはもちろんだ。残りたいと本気で思っている人たちは当然残ればいいと思う。しかし、その人たちが残るために一定規模の人が生活してものが流通することが必要だからといって、不安な人をそこに留めるのは間違いだ。そして、移り住んだ先でもそれまでとあまり変わりなく生きていける環境を、全国の人たちがどうやって作っていけるのか、そのことが問われているんじゃないかと思うのだ。それはとても難しいことで、実現困難なくらいに妄想に近い理想に過ぎないから、結局ほとんどの人が放射能のことから意識を逸らしてそれまでの暮らしを続けるしかない現実があるのだ。だから瓦礫も全国に広がって、多少の別はあれ、汚染も全国に広まってしまうのだと思う。

 そういう現実とは、自分が別の立場になった場合はどうなんだろうかということについての想像力が欠如しているという、そのことの現れなのではないだろうか。