Sunday, December 09, 2012

自分の意思を表明するということ

 2009年の2月、イスラエルの文学賞であるエルサレム賞を受賞した村上春樹はスピーチでこう語った。「ここで、非常に個人的なメッセージをお話しすることをお許しください。それは小説を書いているときにいつも心に留めていることなのです。紙に書いて壁に貼ろうとまで思ったことはないのですが、私の心の壁に刻まれているものなのです。それはこういうことです。
 「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」ということです。
 そうなんです。その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます。他の誰かが、何が正しく、正しくないかを決めることになるでしょう。おそらく時や歴史というものが。しかし、もしどのような理由であれ、壁側に立って作品を書く小説家がいたら、その作品にいかなる価値を見い出せるのでしょうか?」

 当時はオバマ政権誕生直前で、政権移行期の空白期にイスラエルがパレスチナ自治区ガザを空爆。多数の死者も出ていた中の授賞式に村上氏が出席することへの批判も高まっていた。スピーチの中で村上氏自身が「出席するな」と言われたと明かしている。だが村上氏は敢えて出席し、スピーチで意思を表明した。

 日本での総選挙を来週に控え、僕はそんなことを思い出したのだ。

 今回の選挙は実に重要だと感じている。僕らの選択が国の在り様を大きく左右するという実感があるからだ。これまでの政治の在り様、それにまつわる利権の存在、それらに振り回される小さな人々。それが昨年311の震災とそれに続く原発事故でより如実に迫ってきている。なのに社会はそれを解決する方向には進まない。復興という言葉に対する理想型が国民の中で一致せずにむしろ対立しているようにも見える。では心からの理想を復興に投影しているのかというと、そうではなく自らの利益のために復興を利用している人たちの姿も透けて見える。

 僕は、それが「高くて、固い壁」なのではないかと思うのだ。

 僕らは目の前に横たわっている原発事故の収束という大きな課題を解決できずにいるのに、政治は別の命題を表に出して行こうとしているようにも見える。国防軍問題や改憲問題を殊更にこのタイミングで言う人がいる。徴兵制を口にする人もいる。人権を制限しようとする動きも見える。

 第二次世界大戦で日本は敗戦をした。同じ敗戦国家であるドイツでは、国を戦争に導いたナチスをタブーとし、ナチス関係者の罪をけっして許さず、見つけたら墓を暴いて断罪するほどだった。それは国の平和に関するトラウマだったのだろう。絶対にナチスを許してはならない。それがドイツの姿勢だった。日本ではどうだろうか。トラウマがあるとするならば、それは核であり、軍国主義だったのだと僕は思う。だから非核三原則を愚直に堅持し、憲法第九条の戦争放棄を金科玉条のように大切にしてきた。

 それが、今別の風向きに曝されようとしている。

 改憲論自体はあっていいと思う。時代が変わればルールも変わる必要がある。だが、変われば必ず良くなるとは限らない。そして今おこなわれている改憲論のベクトルは、日本を再び軍事大国へと向かわせようとしている。そしてそのベクトルを善しとしている人が増えつつあることも現実で、空恐ろしい。

 世界的な不況の現代である。不況は常に需要を欲する。不況によって醸成された自暴自棄なムードと厭世観が、戦争に寄って生み出される軍需需要を欲しやすくなるのは歴史が証明している。八方手詰まりの政治がそこに向かう可能性はけっして否定出来ない。だからこそ、現在の改憲ベクトルがとても危険で、忌むべきものだと僕は思うのだ。

 
 48歳の僕は、非常にいい時代を生きてきたと思っている。高度成長の中で両親の仕事もそれなりに順調で、特に不自由なく育った。私立の大学にも通わせてもらった。卒業の頃はまだバブルで就職も比較的簡単だった。それは親の世代が戦争を体験し、平和を大切に思いながらこの国を作ってきたからだと思う。政治家だけではなく、普通の人たちがかなり頑張って日本を豊かにし、僕らの世代は恩恵を受けているのだと思う。

 だからこそ、子供の世代にも平和で豊かな日本を受け継がせていく責任が、僕ら世代にはあるのだと考えている。仮に豊かな日本が難しくなったとしても、せめて平和な日本だけは死守しなければならないんだと強く思う。

 埼玉に94歳の男性が無所属で立候補したという。「葬式代としてためていた年金を選挙資金に充てた」と覚悟を口にする。「右傾化する安倍(晋三・自民党総裁)や石原(慎太郎・日本維新の会代表)から『軍』なんていう言葉が普通に出る。橋下(徹・同党代表代行)もムチャクチャ。無条件降伏したのに。日本はどうなっちゃったんだ、という不安がありました」「オレは戦争で死なず、散々いい思いをした。このままじゃ死んでいった仲間に申し訳ない」と。この人が当選するかどうかは判らないし、仮にこの人が1人当選したところで国会を左右できるとは思わない。だが、この人にとっては居ても立ってもいられない想いが突き動かし、今回の立候補になったのだろうと思う。世代は違えどもそれは僕の中にもあるやりきれない想いだ。本当なら僕も立候補したいくらいの気持ちがあるが、現実がそれを許さない。そういう意味でこの94歳男性の行動はあっぱれだと思うし、ある意味、そうしたいけれども出来ずにいる人たちの代弁者であるように感じている。

 この人のように立候補までしなくとも、僕らには1票を投じるという権利はある。それは無料だ。20歳以上の日本人なら誰だって出来ることだ。だからそれをやればいいんだと思う。投票を出来るということは、とても素晴らしい権利なのだ。

 村上春樹のスピーチにあった「壁と卵」の例えは、ガザ地区を包囲している壁のことを指していることは間違いないだろう。ガザ地区を包囲する高い壁はパレスチナ人をその一画に押しとどめている。パレスチナにも言い分はあるだろう。イスラエルにも言い分はあるだろう。だから問題は解決せずに今も国際問題としてそこに横たわっている。その現実は壁によって遮られ、パレスチナ人は自由を欲し、壁に挑む。人々はイスラエル兵に投石を行ない、やがて火炎瓶を投げるという攻撃につながっていく。その投げ手は女性や子供を含んでいた。

 なぜか?そういう手段しかないからである。合法的な方法など無く、だから石を投げることしかできない。自爆テロも行なわれた。それしか方法がないからである。

 村上氏は常にぶつかって壊れる卵の側に立つと言った。僕はその姿勢は正しいと思う。だが、出来れば卵を投げて壊れてしまう前に行動を起こしたいとも思うのだ。

 それは今なら選挙だ。卵を投げる前に1票を投じたい。そのくらいのことを今しておかなければ、子供の世代には本当に卵を、石を、火炎瓶を投げなければいけないことになってしまうんじゃないかという強い危惧を感じている。

 では選挙でどういう票を投じるべきなのだろうか。僕の住む京都左京区は、京都府2区という選挙区である。ここには佐藤大(社民党)、原 俊史(共産党)、前原誠司(民主党)、上中 康司(自民党)の4氏が立候補をしている。これまでは、この中の特定の候補を落選させたいという思いがとても強かった。その人を落選させるために最大の効果を発揮する投票行動は、1位2位を争う対立候補に投票するということがもっとも効果的だと言える。ではそのやり方で投票したとしたらどうなるのだろうか?それは、改憲論を主張する党首を持つ政党の力になるということに他ならない。当初の目的を達成するために最大の努力を払うということは、結局はそういうことになってしまう。

 だが、それでいいのか。もし仮にこの国が軍国主義に傾斜していったとして、今回の投票行動で改憲論を主張する政党に票を投じていたとしたら、後日子供に言い訳できるのか。そう考えていくと、やはり投票というのは単なる戦術などではなく、自分の意思の表明以外のなにものでもないということに突き当たる。

 僕は思うのだ。民主主義というのは多くの人たちの想いに基づいて意思表明がなされる仕組みなのだと。小さな人たちの意思が票という形で表出し、この国の未来を作っていく。僕の想いは小さいが、同じように小さい想いが積み上げられて、大きなベクトルとなっていく。その小さな想いは、小賢しい戦略であってはならない。純粋に自分がこの国が将来どうあってほしいのかという意見であるべきである。そう考えると、嘘つきの党の中心人物や、この国を軍国主義への第一歩に引きずる可能性のある党の候補には絶対に投票など出来ないと思う。他人はどうか知らないが、僕個人はそう思う。だから、その想いに忠実に意思を表明すればいいのだと思う。割と単純なことだ。

 この京都府2区では、以前から応援したいと思っている人の関係者が立候補してくれてはいない。もしそういう人が立候補していれば簡単な選択だったと思う。だがいろいろな事情があるのだろう。今回はそういう簡単な選択が出来る状況ではない。しかし、そのことでいろいろと考える機会になったわけで、ある意味良かったなとも思っている。投票の結果どんな勢力分布になっていくのかが重要なのではなく、自分がどういう人に政治を託したい、あるいはどういう人に政治を託したくないかという、そういう気持ちを大切にして、子供にも胸を張って自分の選択を説明できるような、そんな票を投じればいいのだ。少なくとも今はそう思っている。