Friday, May 24, 2013

アベノミクスとは何?

 まず最初に断っておくが、僕は経済の専門家ではない。と同時に株式投資もやっていない。そういう人間の戯れ言と思ってもらえれば幸いだ。

 今日5月23日、日本の株価は大きく下落した。リーマンショックの時よりも大きな下げ幅だったという。狼狽えた人も多かったことだろう。アベノミクスブームで慌てて株買ったと思ったらこれだ。気持ちが消沈するのも無理は無い。今回の株価上昇は、アベノミクスによるものだと言われている。具体的には日銀の金融緩和によって生まれた円安などによって輸出企業などの企業決算も良くなり、メディアもアベノミクスを礼賛した。海外投資家もこの気を逃さず株購入に走り、株価が上がってきたので日本の個人投資家たちも我れ先にと証券会社に群がった。

 では、実体経済は株価ほどの中身を持ち得たのだろうか。それは違う。もちろん株価が上がることで業績は回復しているだろうが、為替や株価上昇による資産増加などによるのがほとんどで、実際の販売数などはこれからだし、そのこれからを担うような有力製品が出て来ているという話題は寡聞にして聞かない。今回の株価上昇をバブルだという人もいる。僕もその説に一理あると思っている。何も良くなっていないからだ。しかし、そもそもの株価が低すぎたのだという説もなるほどとうなずける。だとしたら、今適正になっただけの話で、バブルというほどのことでもないという気もする。

 だが、僕は思うのだ。その株価が低すぎた時代に、円が高すぎた時代に、苦しい企業経営をどうやって乗り越えて来たのか。それは人件費調整である。雇用形態を正社員から派遣に。苦しい時は派遣を切って対応する。要するに個人の利益をカットすることによって支出を抑え、企業は破綻から逃れて来たのである。だとすれば、今こうやって株価も上がり、一時的な資金も手にしたのであれば、それはまず苦しい時代に助けてもらった派遣をはじめとするリストラ元社員に還元すべきなのではないだろうか。だがそれはしない。それどころか限定正社員という新たな言葉も飛び出しつつあるし、正社員の首切りを合法化する動きまで出て来ている。企業が生きるためにはどこまでも労働者を劣悪な待遇に押し出そうとしている。それが現在の安倍政権の取っている道だ。

 アベノミクスの話に戻るが、そもそもは2%のインフレターゲットを実現するというのがアベノミクスの出発点だったはずで、そこには景気が良くなった結果個人所得も上げていこうということが言われていた。だが、物価はどんどん上がりつつあるものの、個人所得は上がらない。ローソンなど一部の企業が賃上げを発表しているが、正社員の給与が上がっても、バイトの時給が上がったという話では全然ない。そこが上がらなければボリューム感は出てこない。バイトなんて正社員に較べたらお気楽なものだろうと言う人もいるようだが、生活の苦しさはバイトの方が切実だし、物価上昇は正社員だろうとバイトだろうと分け隔てなくやってくる。

 ましてや正社員比率が下がり、派遣労働者が増え、さらには正社員から限定正社員という立場になる人が出て来て、正社員の首さえも切れるようになっていけば、正社員の1人あたり給与が上がったとしても、企業の人件費は相対的に下がる。それは即ち、個人所得の2%増加ということとは真逆の方向に向かうということに他ならない。

 20年前のバブルの時は、本当に仕事が増えた。だから企業はとにかく人を確保する必要があり、それが人件費の高騰を呼んだ。就職活動も超売り手市場だった。だが、今はIT技術の発達によって仕事は超効率化している。仕事量はそれほど増えてはいない。大学新卒の就職活動も依然として厳しいままだ。失業率も下がらず、生活保護件数はどんどん増えている。

 百簿譲って、いや千歩譲って、景気が良くなればいいんだとしよう。しかし、このままでは景気が良くなる前に株価維持の政策も破綻すると感じる。企業の新製品が素晴らしいとかでない限り、株価上昇はマネーゲームの要素による部分が高くなる。これが続くとどうなるのか。バブル崩壊なのか。明言するほど金融経済に詳しくはないが、日銀の金融緩和にも限界がある以上、更なる明るい要素があるとはどうしても思えないのだ。


 個人的には、アベノミクスとはパフォーマンスだと思っている。それは夏の参議院選挙と、その先に言われている憲法改正のための人気取りでもあると思う。だとしたら、それは一種のつなぎに過ぎない。いや何度も断るが、これは僕の妄想に過ぎないのであって、事実だと認定出来る自信も証拠も無い。だが、僕はそう思うのだ。今アベノミクスブームでメディアも誰も安倍晋三のことを叩こうとはしない。ヤボだと思われるから。僕もヤボだとは思われたくない。それはそうだ。しかしこのまま突き進めばハーメルンの笛吹きに引きずられてどこに行くのかもわからないとは思う。だからこんな駄文を重ねたりする。

 国家は国民の生命と財産を守るというのが一応建前だと思う。ではどうしたらそれが守られるのだろうか。簡単に言えば椅子取りゲームである。日本には1億人いたとして、椅子は9000万脚しかない。解決方法は3つだ。あぶれる1000万人も座れるように9000万人の人に「譲り合って座ろう」と声をかける、これが1つ目。国家が頑張って椅子をあと1000万脚用意する。方法は自ら製造するか他国からぶんどってくるのか。これが2つ目。3つ目は、座れなかった1000万人を見捨てるという方法だ。

 日銀による金融緩和は、自ら椅子を作るやり方だと思う。多くの金を市場に流すことで苦しかった人にもお金を行き届かせようとする試み。それがうまくいくのならこんなに良いことはない。だがもしもバブルになったら椅子は壊れる。木の椅子だと思って座って安心した人がある日突然座っていた椅子が破裂する。思い切り転倒するハメになる。

 企業に「給与を上げろ。それが無理ならボーナスを上げろ」と要求したというが、それはある意味譲り合いを促すやり方だろう。だが私企業の中での給与アップは国民全体の所得アップにはつながらない。規模としては更なる施策が必要になるはずだ。

 エネルギー資源を持たない日本がエネルギーを安く供給するためには、原子力が有効だったはず。しかしそれはあの事故で危うくなった。安全性が担保されない状態のエネルギーは賭けであり、結果的に安価なエネルギーとは言えない。シェールガスなどの国内生産が可能になれば、椅子をどこかから持ってくることにもつながるだろう。しかしアベノミクスが有効な間にそれが実現するというのはかなり難しい。つい先日安倍総理が働きかけたことでアメリカがシェールガスの日本向け輸出を認可した。とりあえず朗報ではあると思う。だがこれによって国内生産への取り組みは弱まってくるだろうと思われる。

 最近言われているのは、この国がセーフティーネットを次々と薄くしようとしているということだ。生活保護の申請をすると三親等までの親族が資産の調査をされることになるという生活保護法の改正案が提出された。これが通ったら生活保護など申請出来ようか。生活保護を必要とする人たちが親族からも疎遠になっていることは想像に難くない。所在を隠して暮らしている人も多かろう。だが、申請すれば一気に存在が知られてしまう。ましてや経済的に迷惑をかけることになる。だったら申請するのは止めておこうとなる。場合によっては自殺に至ることもあるだろう。地方自治体の財政が苦しいのはよく判る。制度を悪用している不正受給者もいるだろう。だが、それによって本来受けるべき人が受けられなくなるというのはいかがなものか。憲法は国民の健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を保証している。セーフティーネットを薄くするというのはこの憲法の精神に反していると思う。お金の事情が精神を蝕んでいくのだとしたら、不正受給をする者と、セーフティーネットを薄くしていこうとする国家や自治体と、気持ちの卑しさに於いてはたいして変わりが無いのではないかとさえ思う。

 労働環境をどんどん劣悪にしていく状況も同様だ。正社員が大半だった時代から、派遣にフリーターが一般化した現代。さらには限定正社員などというものも生まれ、サービス残業は当たり前になり、ブラック企業への罰則はほとんど無い。それを認めているこの国の一員として恥ずかしくさえ思う。

 アベノミクスを礼賛する人は、その裏(というか表に見えるのだが)で進んでいる社会の変革をどうとらえているのだろうか。とりあえず自分には関係ないし儲けられるうちに儲けておけばそれでいいと思っているのだろうか。憲法が改正(改悪)されてもおかまい無しなのだろうか。この刹那的な雰囲気に満ちた状況がアベノミクスなのだとしたら、僕はその中で呼吸することさえ苦しい気分だ。