Friday, May 17, 2013

橋下舌禍問題

 橋下市長が絶体絶命だ。慰安婦問題についてかなり軽はずみなことを言って、集中砲火を浴びている。

 維新の存在や活動は正しい民主主義の成立にとって非常に忌々しいものだったので、これで維新(維新である。橋下ではない)が沈没すればいいと個人的には思っているが、だからといって問題を整理せずに闇雲に攻撃して良いとは思わない。今回の発言に対して様々な方面から様々な非難が飛び交っているのを見て、なんだかなあと思ったりしている。

 テレビが伝える映像がごく一部の切り取りであることは知っている。また海外での評価は翻訳を通じたニュアンスの変化を前提にしたものだということも知っている。だからどこまでが本意なのかも、僕自身がどこまで理解しているかも甚だ怪しいが、その怪しい理解の中で感じるのは、非難している多くの人の「橋下許し難い」という時の許せない理由というものが冷静な事実認定の下に行なわれているとは思いにくいということだ。

 僕が思ういくつかの問題点はこういうものだ。「戦闘中の兵士にとって慰安婦的な機能の存在は必要であるのか無いのか」「兵士の人間性を満たすために、慰安婦的立場の女性の人間性を否定してもいいのかダメなのか」「そもそも戦闘状況という非人間的な行為に兵士を追い込む戦争というものは必要なのか不要なのか」「慰安婦を軍が強制的に徴用するのはNGでも、民間からの自由意志で手を挙げている女性に対して対価を支払い従軍させてその任に就かせるのはOKなのか」「第二次世界大戦の時の日本軍が慰安婦を軍組織として従軍させていたという事実はあるのか無いのか」これらの問題点は個別にYES/NOを考えていくべきで、その結果、どのポイントを重視して橋下発言を容認するのか否定するのかということ、そして橋下市長そのものを容認するのか否定するのかということが問われるべきである。

 しかし、多くの意見は「橋下市長は女性の人権を無視している→元従軍慰安婦の人たちに謝れ」という直感的な流れになってしまっているように感じるのだ。確かに橋下市長には女性への蔑視に近い感覚があるようだ。そこには兵士の感情への配慮はあっても、女性の感情への配慮は無い。多くの女性が(そして男性も)本能的に反応して非難する気持ちはよく判るし、その根拠はそういう配慮の無さにあるのだろう。だがその感情が、他の問題点をも巻き込んで直感的に答えを出すことになっては良くないと思う。

 【戦闘中の兵士にとって慰安婦的な機能の存在は必要であるのか無いのか】:これは正直よくわからない。まず兵士になって戦闘をしたことがないからだ。だが平時であっても風俗業は世の中にある。僕は行ったことが無いので行く人の気持ちが理解出来ない。が、友人などで行っている人もけっして少なくはない。ということは、弾が飛び交う中で戦闘をしているかいないかに関わらずそういう機能は社会からは無くならないのだろうという気もする。これはタバコは良くてマリファナはダメなのと似ていて、禁止してしまえば無くなるのかもしれない。だがそれでも法をかいくぐって機能は無くならないのだろうと思う。麻薬は禁止されている日本でも流通しているし、違法な賭博も地下で行なわれているし、禁酒法があった時代のアメリカではアルカポネが暗躍していた。それを倫理的にどうこうという問題と、法的にどうこうという問題と、現象として存在するかどうかという問題は切り分けて考える必要がある。僕の考えとしては、倫理的に認めるわけにはいかないが、残念ながら禁止しても無くならないだろうと思う。

 【兵士の人間性を満たすために、慰安婦的立場の女性の人間性を否定してもいいのかダメなのか】:これが今回のひとつの大きなポイントだろう。兵士のストレスを解消するために慰安婦が必要だということは、人間に貴賎の別なく平等であるならば、兵士のストレスを解消するための慰安婦のストレスも解消される必要があるということになる。だがそのための手当はなんら考えられていない。かつてアメリカで奴隷制度があったとき、アメリカの白人の利便のためにはアフリカから黒人を強制的に連れてきて労働などを強いることも問題ないという考えが根底にあった。今ではそんなことは許されない。黒人にも人権があるからだ。見た目は違っていても人間としての価値は変わらない。権利も平等に保証されるべきだ。それは21世紀の文明先進国では常識である。だが、兵士を慰撫するためには特定の女性の人権などないかのような価値観が、今回の橋下市長の言葉の中には見受けられる。それは攻撃されても仕方の無いことだろう。いや、仕方の無いという言い方も生温いほど、糾弾されて然るべきだと僕も思う。

 【そもそも戦闘状況という非人間的な行為に兵士を追い込む戦争というものは必要なのか不要なのか】:兵士になって闘うということがそれほどまでにストレスを強いられることなら、女性を慰安婦にして強制的に軍に帯同させることが非人道的であるように、兵士を強制的に戦場に送り込むことも同様に非人道的なことであろう。だとすれば、それはなんとしてでも避けるのが文明の存在意義なのだと思う。政治家というのは市民の代表であり、あらゆることに対する知見が一般の市民レベルを超えている、いわば思慮深い知識エリートであるべきだ。人類が戦争の危機に直面する場合、それを回避する案を考えだして平和を維持するとしたらそういう知識エリートたる政治家が真っ先に汗をかくべきである。橋下市長というのは本来そういう立場の人であるはずで、であれば兵士のストレスを解消するために慰安婦が必要とか、慰安婦を強制的に集めるのがダメだから風俗を利用してくれとか言うのではなく、そういう兵士のストレスが起きなくていいように、政治家として平和のために頑張ると言うべきだっただろう。しかしそういう考えがあまり出てこなかったように感じている。それはとても残念なことだ。

 【慰安婦を軍が強制的に徴用するのはNGでも、民間からの自由意志で手を挙げている女性に対して対価を支払い従軍させてその任に就かせるのはOKなのか】:これはいつも使われるレトリックである。自由意志で手を挙げる人ってどういう人なのか。貧困などによってそれ以外に方策がない人のことである。江戸時代には口減らしといって娘を遊郭に売るケースも少なくなかったという。それは自由意志か?親も泣く泣く子供を売ったに違いない。ましてや売られて遊郭で働いている娘の自由意志はどこにあるのだ?しかし、金を出した人は言うだろう。「お金を貰って娘を売ったのだ。彼らには売らないという自由もあった」と。だが、そんな自由は無い人もいるのである。国民の生きる権利を保障する文明国家ならば、そんな風に娘を売らなければいけないような貧困困窮者を出さないように、セーフティネットを充実させる使命がある。だが国政を担う国会政党の共同代表たる橋下氏が「風俗業を活用しろ」というのはなんという話だと正直思う。そして生活保護への風当たりの強さは日に日に増し、「改正・生活保護法案」なるものが成立を目指している。そういう中で困窮者をさらに追いつめ、そして「自由意志」で辛い仕事(?)に就かざるをえない人たちが増えていくのだろう。それはけっして他人事では無いと思う。

 【第二次世界大戦の時の日本軍が慰安婦を軍組織として従軍させていたという事実はあるのか無いのか】:これもまた今回の大きな問題のひとつだと思う。僕にはその歴史事実に対する考察をする能力は無い。希望的な側面も多分にあるけれども、それは無かったと個人的には思っている。元従軍慰安婦と称する人たちが出てきて話題になったり、韓国の日本大使館前に慰安婦の像を建立したりというのは政治的なショーであると思っている。仮に、もしその事実があったとしても、正式な国交がある国の大使館前にその像を建立するなんて、常識では考えられない。もしもアメリカの大使館前に原爆投下の像としてキノコ雲の銅像を建立したらどうだろうか。ドイツ大使館の前にナチスドイツの鍵十字マークをペイントした像を建立したらどうだろうか。そんなことはまともな国交を考えている国のやることではない。機動隊が像を建てようとする業者を排除するだろう。
 韓国のそういう姿勢には首を傾げざるをえない。それでも彼らはそうやって慰安婦問題をいつまでも蒸し返す。というか、架空(と思っている)の話をしたがる。今回の発言は、慰安婦問題をまた持ち出して騒ぐきっかけを与えたに過ぎないと思うし、それを日韓両国の間だけの話ではなくて国際世論も巻き込んで日本の立場を不利にしたと思う。そういう点で、やはり今回の発言は失言に過ぎたと考えざるをえないと思う。


   橋下氏の発言は確かに致命的だ。だが、個人的に確認しておきたいのだが、政治家としては橋下徹という男は類い稀なる才能を持っている。今回の発言で彼を追い落とすのは日本にとって得策では無いと思う。こういうと「何を言ってるんだ、お前も慰安婦賛成派か」と罵声を浴びせられるんじゃないかと心配もする。だが、慰安婦問題と政治家としての才能は切り離して考えるべきだと思うのだ。

 それは日本(に限ったことではないのかもしれないが)のもっとも悪い点である。ひとつのスキャンダルが政治家を失脚させる。そして残るのは可もなく不可もなくという凡庸な政治家だ。これなら二世でも三世でもつとまるという居眠り議員だ。官僚が楽に操縦出来る。アメリカだって操縦出来る。そういう人ばかりが残るのでは、日本の真の自立などはありえないし、国民の幸せなどもありえない。

 最近では希代の政治家小沢一郎が実質的に失脚した。有りもしない政治資金の悪用というキャンペーンによって世論が作られ、検察審査会というブラックボックスの中で決まった怪しげな議決で失脚一丁上がりだった。そのことで日本が失ったもののなんと大きいことか。橋下徹も程度の差こそあれ同様に失脚させられようとしている。「彼が失脚するなんて当然だし価値の無い男でしかない」という言葉も聞こえてくる。もちろん小沢一郎の無罪判決のように明確なシロではなく、橋下徹の発言は現実にあったのだから比較するのもおかしな話かもしれないが、だとしても、これをもって政治家として失脚すべきとは思わない。むしろここで何かを学び、次の正しい行為のために余地を残しておくべきだ。もちろん政治家なのだから彼が好きな言葉のように「選挙民が選挙で選ぶ」かどうかが鍵なのである。だがその選挙民の多くが、いろいろな問題をゴッチャに考え、混乱した考えの中で感情的に結論を出してしまうわけだし、それを知っているメディアがガンガンと攻撃しているという現状から考えれば、その選挙民による鍵も簡単に吹き飛んでしまうわけで。それがどうしようもなく虚しいわけで。