Tuesday, May 21, 2013

弱い者がさらに弱い者を叩く

 僕には絶交している友人がいる。そういうとちょっと違うかもしれない。正確には小学校時代にとても仲が良く、お互いの家に行き来を繰り返したが、その後なにかでケンカ。絶交。中学卒業までの約5年間、同じ場所に毎日通いながらも1度も口をきかなかった友人がいるということ。

 当然卒業後は会うこともなく、そのまま絶交状態。でも中学を卒業してから1度も会っていない当時の同級生なんてたくさんいるし、そいつらと今も友人かといわれれば甚だ疑問だし、だったら、絶交状態が今も続いているという認識もやはり現実的ではないような気がする。彼ともし今ばったり会ったら、懐かしいなと話が出来るだろうか。それとも空白の33年を経てまっさらな状態で新たな友人関係の緒に就けるだろうか。無意味な空想ではあるが、おそらく、その両方とも無理だろう。33年を経て多くの友人の名前も顔も忘れてしまった。だがそいつのことは覚えている。絶交をしたという経験は余程強いのか。忘れることはまず無理なんだろう。

 でも、なんで絶交することになったのか、その理由はまったく覚えていない。だったら旧交を復活させろよといわれるかもしれないが、それはもう無理なんだ。これが国交に関わることなのであれば、私心を殺して国益のために握手もするだろう。だが、これは単なる子供時代の諍いなのだ。自分の古い傷跡なんだ。それを何のために我慢してにこやかにしなければいけないのだ。その理由はない。そんなことをするならケンカもしなかった音信不通の同級生たちとの再会に心を尽くすよ。私心を殺すのはそれが全部終わった後に考えれば済むことだ。たとえ絶交状態になった理由が既に僕の記憶の中に存在さえしていないのだとしてもだ。

 ここ数日話題になっている乙武氏のイタリアンレストラン入店拒否事件について、乙武氏がブログで説明をしている。なるほど、当時の状況がよく判る。ツイートで店名を公表したことへの後悔も書いてある。もちろんこれは一方の当事者からの見解であって、必ずしも公正公平ではないと思う。そもそも今回の件では一方が加害者で一方が被害者という体になってしまっているから、その構図が変わらない限り公平なジャッジなど不可能だ。

 まあ僕はここで乙武氏を非難するつもりも擁護するつもりも無いし、レストランを非難するつもりも擁護するつもりも無い。ただ、レストランの人がどのくらい公共性をもって障害者も楽しめる空間を作ることに勤めなければならないのかという問題は一概に博愛の問題だけでは語れないと思う。お金のある企業がやっているレストランならばバリアフリーのエレベーターなどの設備も完備したビルに入るだろう。だがカツカツでやっているレストランは「味で勝負」ということでやっているのである。今回のビルの写真も出回っていたが、それを見ると入り口は狭いし階段だ。そういうビルは条件が悪いのできっと家賃や保証金も安いのだろう。そういう所を削ってオープンさせなければ、売上げの大半は賃料に持っていかれてしまう。いくら働いてもお金は残らないということになってしまう。もちろんそこで評判を呼び、2店目は少し条件のいい場所に出していけばいい。それがサクセスストーリーだ。でも最初はどうしても条件の悪い所で始めなければならない。スタッフの人件費もそうだ。たくさん雇って余裕で回せるのはごく一部のレストランだと思う。みんなそんなに余裕などないはずだ。

 どんなお店も回転率というものを気にする。売れていなくて空席がある時はいいけれど、ランチタイムなどピーク時には少しでも回転させてたくさんのお客さんに提供したい。喫茶店で長々と座って本を読んでいるとお店に取っては大打撃だ。スタバが最近パソコンの使用制限を打ち出したりしているのもそのためだ。そういう時にお店側に余裕が無くなるのはある意味仕方のないことかもしれないと思う。

 かといって、障害者を差別して良いとは思わない。差別というか、どこまでケア出来るのかということなんだろう。それはやはり受け手の余裕によるところが大きいのかもしれない。バリアフリーの設備にするのにもお金はかかる。企業理念としてすべての人に満足のサービスを心がけたいというのは誰しもあると思う。しかしそれをする余裕がすべての人にあるとは限らないし、それを求めるのは酷というものだ。

 障害者は自分の希望で障害を持ったわけではない。そして今の時点で障害を持たない人だって、明日何かの事故によって障害を負うことも十分にありうる。そういう意味で両者(こういう分け方も本来いいことでは無いとは思うが)は同じ社会の一員同士として助け合いながら互いに幸福を追求していくのが理想だと思う。差別などもってのほかだし、健常者にとって当たり前のこと、例えば階段を上るとか、走るとか、なんかそういったことを当たり前に要求するのは配慮に欠けていると言わざるを得ない。

 では、大企業経営のレストランと個人経営のレストランに対して、同じことを当たり前に要求することは配慮に欠けているとは言えないのだろうか。そういった意味では、乙武氏と件のレストランは同じなのではないかという気がするのだ。

 こういうことを思うようになったのは、奥さんが妊娠をしてからだ。明らかにおなかの大きな女性なら、周囲から見ても妊娠しているのだということは判る。だが、妊娠5ヶ月くらいまではそんなにおなかは大きくならない。女性もこれ見よがしに妊娠が判るファッションをするのは稀で、出来るだけ普通に見えるようなファッションをしようとする。そもそもそれまでの服が着られるのだから、マタニティウェアが必要になるまでは持っている服を着こなすのは当然だろう。

 だが、5ヶ月を過ぎておなかが大きくなり始めるころというのはいわゆる安定期に入った頃だ。もちろんその頃に体調が不安定になることもある(ウチはそうだった)ので一概には言えないが、安定期に入ると身体は楽になるそうだ。問題は安定期に入る前で、つわりが酷いのはその頃。つまり、おなかが大きくない頃にこそ、周囲がいたわる必要がある。でも周囲から見えないのだからどうやっていたわればいいのだ。そのひとつの答えが、マタニティチャームだ。妊娠をするとストラップのようなものを貰えたりする。雑誌の付録にも付いてくる。それをバッグなどにつけている女性は結構多い。それをつけることで、自分は妊婦なのだというサインを出しているのである。でも、自分の奥さんが妊娠するまではそんなものに気付くことはなかった。気持ちとしては妊婦さんはいたわるべきだと判っている。だからおなかが大きければ当然席も譲るだろう。だが、おなかの大きくない人に対しては気付いていないのだから当然いたわれない。ダメ人間ではないつもりでいても、結果的にはダメ人間と同じだったのだ、僕も。

 大事なのは、気付きである。それは知識と想像力によって生まれるもの。配慮もクソも、気付きが無ければ絶対に生まれない。僕などは当然気付きの少ないダメ人間である。今回のレストランの人も気付きは少なかったのだろうし、そういう意味では乙武氏にだって気付きが足りていたとは言えないように思う。もちろんだからといって両者が完璧ではないという理由で非難されなければならない理由はまったく無い。みんな自分のことで頭がいっぱいで、余裕などある人はほとんどいないと言えるのだから。誰も加害者でもなければ、被害者でもないと、僕は思う。

 ネットの世界ではわかりやすく乙武氏が被害者でレストランが加害者という構図が出来上がっている。そのステレオタイプな構図が、実は差別そのものなんじゃないかという気がしている。そして被害者擁護という立ち位置でレストランが攻撃される。だが、その瞬間レストランは被害を受ける。その攻撃とは、レストランが乙武氏に対して行なってしまったことと大差ない仕打ちではないのか。善意でもって他者を攻撃する。その無神経さが、差別というものの出発点なのではないかと思う。

 弱い者がさらに弱い者を叩くというのは、今に始まったことじゃないし、それが悲劇を生んでいるということも僕らは認識すべきだと思う。


   今回の乙武氏のブログでは、入店出来なかったことに怒っているわけではないし、乙武氏側の問題(非難されるべきということではなくて、偶然の悪条件という意味で)も重なっていたということだった。それだけなら店名ツイートはしなかったそうだ。それなのにツイートしたのは、彼自身の未熟さと、「相手を小馬鹿にしたような、見下したような、あの態度」に憤り腹を立てたからだそうだ。そういう気持ちはすごくわかる。いやもちろん僕自身は障害者ではないので、小馬鹿にした態度への怒りがわかるということではない。そうではなくて、ちょっとした気分で人は決定的に傷つくのだということである。

 僕が33年前に絶交した友人との些細なことも、きっとそういうちょっとした気分なんだろうと思う。それがどういうことだったのかはもうすっかり忘れてしまっているけれど、今も鮮明に思い出せるそいつの顔には、気分を害された時のいやな思い出とか雰囲気が染み付いている。具体的な原因は忘れても、気持ちの凹みはイヤな感覚として染み付いてしまう。それが絶交を解くことの出来ない最大で唯一の理由なんだろうと思う。

 乙武氏に限らず、無名な障害者の人たちは、そういうイヤな感覚を植え付けられることが多いのだろうと想像する。僕だって意図せずに障害者を傷つけたことがまったく無いとは言い切れない。このブログだって読んでイヤな気持ちを持った人が出ないとも言い切れない。それは僕自身に気付きが足りないせいであって、だとすれば謝る以外に無いわけだが、だとしても完璧な人間になることなどほど遠く、また明日から、いや今日からもまたイヤな思いをさせてしまうことを繰り返してしまうのかもしれないと暗鬱になってくる。

 だから、ちょっとずつ気付いていきたいと思う。ましてや弱い者がさらに弱い者を叩くようなことで自らの溜飲を下げるような行為は慎みたいと、自分を戒めるような気持ちで思う。