Saturday, May 11, 2013

おかしな本棚

 本棚から引っ張りだして読み始めたのが、クラフト・エヴィング商會の『おかしな本棚』だ。



 この本は京都に引越してきてすぐ、マンション近くの有名書店恵文社一乗寺店で買ったものだ。東京にいる頃から恵文社という本屋が好きで、Twitterでアカウントをフォローしてて、そこが「こんな本が入荷しました」「こんなイベントが今度あります」とつぶやく度に、ああ、いいなあ、行きたいなあと思っていたものだ。入荷した本など東京でも買えるし、amazonでだってすぐに取り寄せられる。でも、恵文社が奨めてくれるものは恵文社で買いたい。

 京都に引越すことになり、偶然にも恵文社が余裕の徒歩圏内ということになり、しばらくは週に2〜3度は通っていた。今も週に1度は足を運ぶ。で、この『おかしな本棚』も恵文社のアカウントが紹介してくれたのだった。クラフト・エヴィング商會ってなんだ?そこにまず興味を持つ。で、なんとサイン本だという。知らない作者のサイン本を欲しくなるとはおかしな話だが、無くならないうちにと慌てて買いに走った。

 そしてこの本は今僕の本棚にある。本にまつわるエッセイ集なのだが、これが面白い。頭から終わりまで一気に読み通すという本ではなく、時々出してきては雑誌を眺めるようにページをめくる。そう、これは雑誌なのだと思う。雑誌も頭から終わりまで一気に読み通したりはしない。面白い特集を眺めては閉じ、また時間の空いた時に眺めたりする。つまらない雑誌はすぐに古紙回収の日に出されるが、気に入った雑誌はなかなか本棚から消えていかない。同様に『おかしな本棚』も消えていかない。装丁が本なのだから雑誌よりも捨てにくい。というか、これは気に入った雑誌並みに消えていかない気がする。いや、これこそ本棚に長く鎮座していていただきたい本だと思うのだ。

 この本では作者がいろいろな本について、また本棚について書いている。これがとにかく面白い。ある章では、本棚の奥行きがある場合には前後に本が並べられてしまい、奥に収められた本は段ボールにしまわれるよりはマシかもしれないが、せっかく本棚に並べられる栄誉を勝ち取ったにもかかわらず、本棚に並んでいる意味がほとんど無くなる、と書いてある。あるあるそういうこと。うちの本棚でも多くの本が後列に幽閉されている。でも仕方ないのだ。家はそんなに広くない。

 またある章では、本がそこにあるのは、その本を買った時の自分の記憶が背表紙を見ただけで思い起こされるという一種の記憶喚起装置としての意味合いがあるので、また読み返したりしなくても、「おっ、いるな」と思うだけでいいのだ、と書いてある。これもまったく納得出来る。もうきっとその本を読み返したりはしないのに捨てられないのは、自分の記憶を消去&リセットしたくないのと同じことだ。そこにあるだけでいい。もちろんスペースに限りはあるので、記憶の中でも残しておきたい本だけが抽出されることになる。歳を重ねるに連れて、本棚に残る記憶の密度はどんどん濃くなっていく。

 そしてまたある章では、家族の本棚にはみんなの本が並んでいて、存命中の母の本よりも無くなった父の本の方が目立つ場所に並んでいるのがおもしろい、とある。そこに父の本が並んでいることで、本棚は仏壇の役割も果たしていると。ああなるほど。それはまったくそうだなと思う。僕も父が持っていた書道の練習本を本棚に置いている。それは父の存在の証でもある。また、中学に入った時に父からもらった国語辞典もそこにある。今となってはわからない言葉はネットや電子辞書を使うのでもう国語辞典を開くことはほとんど無いが、贈られた国語辞典の表紙を開いたところには父から僕へのメッセージが自書されていて、絶対に捨てることは出来ない。父は確かにその本棚にいるんだなと思う。

 さて、僕の本棚はすでに家族の本棚として役目を変えている。当然僕の本と奥さんの本が渾然一体と並んでいる。だから本の半分には僕の記憶は存在していない。だが、そういう渾然一体としている本棚が既に僕らの結婚の証でもあるのだろう。知らない本があるということが、僕は1人ではないということを意味している。知らない本が並んでいると言っても、それは本屋や図書館の本棚とはまったく意味が違う。そこにある知らない本には、彼女の記憶が詰まっている。それが僕の記憶と渾然一体となっているということは、人生が混ざり合ったということの証明でもあるような気がする。

 こういうことは、電子書籍ではありえない感慨だと僕は思う。それがなかなかデジタルに気持ちが行かないひとつの要因だろう。紙の書籍だったら、自分が読んで面白かったものを奥さんに「読んでみる?」といって貸すことも出来る。だが電子書籍では端末そのものを貸さなければいけない。それは面倒なのできっともう1冊買えということになってしまうだろう。本棚を共有するなんてこととは全く別の文化がそこにはあるように思う。

 もちろん以前は巻物だったものが書籍となって僕らの生活に福音をもたらしたように、いずれ紙の本は消えてなくなり、今の紙の本にあるいくつもの特性をも含む電子書籍文化というものが取って代わるのだろう。だがそれは今日明日ではなく、もう少し先の時代なのではないだろうか。僕はそうあって欲しいと思う。たとえ電子書籍が紙の書籍を圧倒したとしても、僕の家にはまだまだ本棚を置いておきたい。

 そうそう、11ヶ月になろうとする息子に絵本を読んであげるのが今ものすごく楽しいのだ。彼の本(絵本)も僕ら夫婦の本棚を浸食し始めた。本棚は、家族の証でもあると思うのだ。