Friday, May 03, 2013

憲法記念日

 祝日の今日、昨晩遅くまで起きていたにもかかわらず、長男の起床とともに一日が始まる。休みだから遅くまで寝ているという理屈は通用しない。

 で、朝ごはんを食べ、洗濯物をたたんだりしていた。僕がたたんでいる時も生後10.5ヶ月の長男はおとなしくなどしてはいない。お父さんがなにか面白いことをやっているに違いないと思うのか、近くにずり寄ってきては、たたんだ服を片っ端から散らかそうとする。それを排除してはまたたたみ、たたんでは排除する。その繰り返し。効率が悪いったらありゃあしない。

 でも、長男が近寄って来られないように別の部屋に閉じ込めておくのはイヤなのだ。興味あるものに近づくのは正常なことで、喜ぶべきことであっても迷惑がることではない。多少作業効率が下がっても、数枚の洋服を何度もたたみ直すことになっても、それはそれでいい。ちゃんと長男が成長しているということなのだから。

 なぜ連休に僕が洗濯物をたたむのか。奥さんはなぜしないのか。という声は挙るのだろうか?挙ったって気にしない。たたむのは好きなのだ。好きなことを僕がやって何故悪い。長男がたたんだ服を散らかすなら楽しみが増えるというものだ。それに、連休は家族の連休であって僕だけの連休ではないのだ。奥さんがそれで楽が出来るなら、それこそ奥さんの連休スタートというものである。

 そんな連休後半初日は憲法記念日だった。時節柄憲法改正論議が喧しく、もはや改憲は前提のように進んでいる。この問題はなかなかに奥が深い。憲法論議はいろいろな憲法学者が論議を積み重ねてきて、新しい論議は出来ないくらいにガチガチになっていると聞く。その割に僕を含め国民の多くは憲法についてほとんど知らない。9条くらいだろう条文を知っているのは。今96条の改正を自民党が狙っているということだが、96条もあるのかと驚くくらいだ。97条以降もあるのか、それも知らない。仮に96条で終わりだとして、9条と96条以外に94条もあるわけだ。それを知らずに改憲もクソもないだろうという気が正直している。一度きちんと読んでおきたいと思った。

 では、読んでなくてわかっていないなら黙ってろということなのかというとそうではないと思う。戦後67年もの間とりあえず平和に暮らしてくることができた。その平和な国の根本原則である憲法を変えるということに怖さを感じたとしてもまったく不思議ではない。今の憲法を変えないといけないとするならば、何故今のままではダメで、変えることによってどのようにこの平和と繁栄がさらに平和で繁栄な国につながっていくのかということを、改憲主義者は説明する必要があるのだろうと思う。「アメリカから押し付けられた憲法だからダメ」というだけでは説得力などまったく無い。ましてや今回の96条からの改正という手法は、ルールの根本をなし崩しにしようというもので、本質的論議というより技術的戦略に過ぎない。それは邪道だと思う。誘拐犯が子供に「おもちゃ買ってあげるから付いておいで」という時のおもちゃそのものだ。おもちゃに釣られてついていくと、その先にあるのは誘拐だ。そういう怖さを僕は感じる。もちろん善意でおもちゃを本当に買ってくれるおじさんもいるかもしれない。でも親なら「その人が本当におもちゃを買ってくれる人なのかを慎重に見極めなさい」とは教えない。普通は「知らない人についていってはいけません」だ。僕もそう教わってきた。だから、よく知らない改憲論議には最初から嫌悪感を覚えるのである。おもちゃを買ってあげるというおじさんが本当に善意だけで言っているというのなら、親を含めて説明を十分にすべきなのである。説明が十分にされて、それでもなおまともな人はついていかない。それをついてこさせるくらいの丁寧な説明が必要なのであり、それは今の改憲論議ではまったくなされていないと僕は思うのである。

 何事もそうだが、変わっていかなければ生き延びることは出来ない。その変化が改憲を必要とするものなのか、それ以外の変化で十分なのか。そこもちゃんと判断されるべきだ。判断するのは、僕だ。これを読んでいる普通の人だ。政治家だけではない、日本国民すべてが等しく考える義務がある事柄だと思う。

 連休後半初日、僕はとても幸せな気分で過ごすことができた。生後10ヶ月半の長男との暮らしはとてもスリリングでエキサイティングでピースフルなことだ。その長男と1日ずっと一緒でいられるというのは幸せそのものである。その1日が洗濯物をたたんだり、それを邪魔されたりすることだとしても、僕は素晴らしいと感じている。この幸せな時間が少なくとも長男が生きている間くらいまでは続いてもらわなければ困ると思う。憲法を変えるというのは、それに資することなのだろうか。その確信が今の時点ではまったく持てない。

 確信を持てないのは一体何故なのか。単に僕に日本国憲法についての知識が欠けるからなのか。それとも現在の改憲推進の動きが本当に邪道でそれを的確に感じ取っているからなのか。そんなことをちゃんと考えるには、憲法記念日という今日は一番ふさわしいのかもしれない。