Sunday, May 05, 2013

こどもの日

 なんか世情は不安だ。何が不安だって簡単に説明など出来るものか。簡単に出来るくらいなら簡単に修正も出来るだろう。完全な悪と完全な善がいて、勧善懲悪で物事が済めば苦労は要らない。悪に見える人も一方の陣営からはヒーローである。そして何より1人の人間だ。人間には基本的人権というものがある。その中で誰もが悩んだり苦しんだりしている。どうしようもない流れでその立場になった人もいる。というかほとんどの人はそうだろう。就活でそこに偶然内定が決まっただけの人は五万といる。ある特殊な家に生まれたばっかりに抗えぬ力で政治家になってしまう人もいる。そうなりたい人からすると「ずるい」ということだろうが、なってしまってる人からすれば、それ以外の道を選ぶ自由などない。基本的人権があるから選ぶ自由はあるのだ。だが自由とはいつも手にするために多大なる労力や犠牲が必要となるものだ。ぐずぐずしていたら自由な道を選択することなどなく、いつの間にか「オレはどうして今こんなことをやっているんだろう」という立場になってしまっている。いや、ほとんどの人はそれを天職と錯覚して馬車馬のように頑張っちゃっているのだが。

 で、世情の不安だ。憲法改正して徴兵制とかになって戦争になったらどうするとか言われてて、そこまでなるかよとは思うのだが、じゃあ絶対ならないかと言われるとそんな自信はまったく無い。制度としてそうなるのかという問題とは別次元の、もっとみんな国民はまともだろという期待がかつてはあったけれども、この数年でそんな期待はまったく崩れた。第二次世界大戦前にどうして国民を挙げて戦争に突入していったのか。その時の国民は愚かで阿呆だったんだと思っていて、戦後の民主教育を受けてきた僕らには個人主義が浸透しているからなんだって自由なことが言えるし、だから戦争をするなんてことを言う政治には敢然とNOを突きつけるはずだと思っていた。が、それも311以降の絆圧力を目の当たりにすると、ああ、人間はいとも簡単にその同調圧力にひれ伏してしまうんだということを思わずにいられない。それは一種の諦めだ。絆という一見まともで正義な言葉に押されると、人は「いやそうじゃないよ」と思っていてもそれを言葉にすることが出来ない。出来ると思っていたのは机上の空論だったし、書生論に過ぎなかった。人は圧力に弱いし、それに対抗する唯一の手段は沈黙だった。転向する必要はない。だけど主張を貫き訴える必要もない。だから自然と黙るのだ。黙ると、両極端の人だけが声を上げ続ける。声を上げるというのは事業であり、事業には資金投下が必要である。結果として金を持っている勢力が声を大きくしていくことが出来る。戦争とは詰まる所金だ。やることで儲かると信じてる人が宣伝予算を使ってムードを醸成し、一気に突っ込んでいく。本当は無言の声もあるのに、金を持っているビジネスマン勢力と、正義だけで動こうとする理想主義者での両極端な言い争いのどちらが勝利するのかは目に見えている。ビジネスは結局コストとリターンのバランスだ。利益をあげるためには人件費などどんどん削っていくし、サービス残業で過労死しても仕事の勢いを止めようとしない。止めれば外部とのビジネス戦争に負けるからだ。それは今の世の中で散々見てきている。本物の戦争だって基本は同じこと。働いたのに「サービス」でお金をもらわず黙っているのは、要するに絆みたいな何かのスローガンに騙されているわけで、その精神構造がアリなら、お国のために自分の命までサービスで投げ出すことだろう。だって働いたのにお金もらわないっておかしな話じゃないか。でも、黙っている人はものすごく多い。国のために命だって普通にサービスで投げ出すよ。おかしな話だ。でも、圧力がかかりムードが支配すると、それもアリだと思い込んでしまう。単なる思考停止だと思うけれども、そのまっただ中にいる人にとっては思考停止だという概念さえ消え去ってしまっているのだろう。

 で、こどもの日だ。僕にとっては子供がいる状態で迎える初めてのこどもの日。子供のことを今まで考えていたかこの5月5日に?ただ「休みだ〜」なんて感じでいただけだ。でも今年は子供のことを考える。明るく楽しく過ごしていければいいなと思う。ずっと幸せな人生を送ってもらいたいと思う。そのために何が出来るんだろうと思う。でも、絆圧力が世間を支配したら、僕に一体何が出来るのだろうか?それを考えると頭を抱えてしまう。だって息子10ヶ月半の一生を見守り続けることなんて不可能なのだから。だとすると、やっぱり教育だ。教育といっても勉強を詰め込むことではないと思う。人間がなんで生きているのか。幸せとはなんなのか。こうと思ったことをどうやったら続けていくことが出来るのか。そしてこうと思っていたとしても、それ以外の道もあるんだという柔軟な思考を持つにはどうしたらいいのか。そういったことを教えてあげたい。それを教えてくれる学校も塾も無いと思うから。いや、もちろん生きていく中でいろんな友達や師に出会うだろう。そういう人からも教わっていくだろう。だが父親こそがそういうことを教える最大の柱だと思う。というか、そうでなければならないと思う。それが自分に出来るのだろうか。いや、出来るかどうかじゃないんだなこれ。やるかやらないかなんだなきっと。

 頑張ろう。そんなことを考えながら、夏の陽気が少し顔をのぞかせた京都で1人かき氷を食べながら考えておりました。なぜ1人かというと、肝心の息子はお母さん(僕の奥さん)と一緒に、ママ友から誘われたこどもの日イベントに出かけておりましたので。

 父親は孤独だ。でもその孤独が哲学を鍛えることになるし、それがいろいろ教える基になるんだと、自分に言い聞かせたこどもの日だった。かき氷を食ったのは桂にある中村軒。季節のイチゴ氷はとても美味しかった。いい日だった。

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