Sunday, December 14, 2008

レコーディング&ビデオ撮影

 プライベートで多忙だった1日。土曜日は朝から義母が上京し、夫婦で東京案内。義妹や友人や友人の嫁やまた別の嫁さんの友人とか、それぞれ別々に会ったり話したりメシ食ったり、そんなこんなで夜の8時過ぎ。まだ1日は終わらない。嫁さんとその友を残して僕は車を走らせ一路藤沢へ。藤沢のスタジオで有刺鉄線のレコーディングが行われていたのだった。夜の慣れない道で迷いつつも、地図を頼りにようやく22:30頃にスタジオに到着。ほぼレコーディングは完了していて、メンバーは多少疲れの表情を見せていた。だが、こんなところで疲れてもらってはいけない。なぜなら、今夜僕は彼らのビデオ撮影をするために藤沢までやってきたのだから。

 ビデオ撮影についての僕の考え方はというと、まずは作るということが大切だというものである。かつてはビデオを撮影してもそれをテレビで流してもらうことは結構難しかった。しかし今はYouTubeなど、ネットで見てもらう機会が普通にあるし、だからどんなマイナーなPVでも、ユーザーが「見たい」と思えば見ることが出来る。しかも即座にだ。おそらくバンドの姿を見るという機会は、ライブハウスで生で見るよりもYouTubeで見る機会の方が多いだろう。しかも気軽に、世界中のどこからだって。だとすれば、バンドがライブをするということと同等か、それ以上の重要性があるはずだと思うのである。

 では、どういうものを作れば良いのか。もちろん良いものに越したことはない。だけれども自ずと限界はある。まずは予算的なもの。大セットを撮影スタジオに組み立てて、CGとかも駆使しまくり、さらには有名俳優さんに出てもらうとか、やればやるだけ良く見えるし、話題にもなるだろう。が、しかし、そんなことを言っていてはそもそも無理だということになってしまう。だから、まずは作れる範囲で作るのだ。よくライブハウスの固定カメラの映像をYouTubeにアップしているバンドがいるが、あれは正解だと思う。特別に撮影編集出来ないのであれば、それでもアップした方がいい。なぜなら、その映像があることで曲を聴いてもらえる機会が出来るからだ。もちろんそれを見て「つまらない映像だ」といって評価してくれない人もいるだろう。しかし、一方でわかってくれる人だって必ずいる。アップしなければプラスマイナスいずれの評価もゼロなのだ。だったら、まずは作るということが大切で、それをアップするということが大切で、そのために何が出来るかということを、一生懸命に、しかし同時に冷静に考えていくことが重要なのだ。

 今回はもうこのタイミングで撮影しなければいけない事情があった。なぜなら今回のレコーディングは来月発売のマキシシングル用の音源で、そしてそのシングルにはエキストラ形式でPVを入れることが決定していたからだ。来月のだよ。今日までは彼らもレコーディングに専念させる必要があったし、しかし全員が集まれる次の機会をとか言っていたら、もうシングルに収録することさえ出来なくなってしまうのである。なので、レコーディング終了の瞬間をつかまえて、ビデオ撮影をするということになったわけだ。

 最初は、時間的にも暗くて撮影には向かないだろうから、ジャケット等の最終チェックをして朝を待ち、朝の江の島あたりの海で撮影をしようということにしていた。しかしスタジオの近くは結構いい雰囲気で、街灯の明かりも結構煌々としていて、これなら撮れるかもと直感した。どうも周囲は住宅地区ではなさそうだったし、多少音を流しても苦情が来ない感じがしたのも僕の気持ちを後押しした。「じゃあ、始めよう」そう言う僕の言葉にメンバー一同ちょっと驚きを見せたものの、抵抗したり反対する理由もないし、じゃあということでスタートすることになった。

 写真撮影の時は縦横無尽な表情を作ってくれる新ボーカルのユーセフも、ビデオ撮影となるとちょっと勝手が違ったのか、どうやって気持ちを乗せていいのかちょっと戸惑っていた。ライブならマイクスタンドがある。ギタリストやベーシストなら楽器を演奏するという作業がある。だがPVではボーカルにマイクを持たせると絵的な自由度も失われるし、そもそもマイクスタンドなど持ってきていないのだから、もうやってもらうしかないのだ。最初は戸惑っていたものの、数テイク撮ってみると徐々に慣れてきて、自由な表情を見せるようになってきた。いいぞいいぞ。でもあまりに自由すぎるので、「こんな風にした表情で」とか「動きはこの範囲で」とかの指示を出す。映像に自分がどう映っているのかを想像して演じるというのはなかなかに難しいことで、でもカメラを向けている者としては「こうしてほしい」というものがあるので、そういう演出をすることになる。

 そういう演出に従って動くということはアーチストの自主性を放棄するという考えの人もいて、だからスタッフの意見にことごとく反抗するような人もいる。でもそれは自主性をどうこうということではない。こちらがいくら頑張ってやってみても、事実を歪曲することなど不可能で、そこに映るのはアーチストそのものでしかない。意図としても彼らをねじ曲げようとかいう想いはなく、むしろ彼らが一番輝くようにするにはどうすれば良いのかということを考えて、その考え方によってベストと思う結果を得るためには、被写体の協力が必要なのであり、演出とはそういう協力の要請だと僕は思う。スタッフといってもレーベルのボスとアーチストというすごく近しいものだけではなく、雑誌のインタビューアーとか、一期一会の関係性なんかもある。そのすべての関係性のなかでスタッフをコントロールしようなんてことはまず不可能だし、だとすれば、そういう関係性のなかで相手を信頼するということが必要だし、その上でもっと自分の考えを実現したいと思うのであれば、相手の仕事の中身を理解し、こういう動きをしようとしている場合はどういう法則で動いているのかということを察し、先回りして自分の動きを制御していくという、そういうことをしていけるように自分が成長していくことが大切だ。ダメな自称アーチストの場合は、自分が理解していないにもかかわらず、相手に相手の主張の根拠を逐一説明させようとして、その説明を当たり前のこととして敬意を払わず、そしてその説明を理解せずに反抗をするし、自説にばかりこだわる。そうなってくるとそのスタッフは愛想を尽かすし、次からはもう一緒に仕事をしようと思わなくなる。結果として、アーチストは自分の可能性をひとつひとつつぶしてしまうという結果になるのだ。盲信する必要等はない。だが、自分が相手の持っているレベルと対等なのかということを常に自省し、その上で言うべきことは言い、従うべきは従うという、そういう柔軟性を持つことが必要なのだと思うのである。

 やや脱線したが、有刺鉄線のメンバーは僕のことを信頼してくれているのか、演出指示にも普通に従ってくれた。従いつつも不安はあるのだと思う。ボーカルのユーセフが自分の出番を終えて、僕がギターとベースの撮影をしている時、車の中で休憩しててもいいよといわれたにもかかわらず、僕が撮影しているのを後ろから見ていた。そうするとどんな構図で映っているのかということが見えるから、僕の撮影についての理解が深まったのだろう。「いやーカッコいいよ、いい感じで映っているよ」と演奏している2人に向かって盛んに声をかけた。ユーセフのそういう声を聞いて、10回以上演奏をして疲れまくっている2人もダレているわけにもいかず、さらに白熱のパフォーマンスを見せてくれた。

 そこでユーセフが車で休んでいたら、何も知らないままに過ぎていっただけだっただろう。もちろんそれで今回のビデオの質が変わってくるわけではないが、そうやって疲れているにもかかわらず外で僕のカメラのビューアーを覗いていたということが、彼の中でのビデオというものへの理解度を高めることにつながるわけだし、それが成長というものだろう。そういう成長でまた次の機会にはより高度なパフォーマンスをカメラに最適な形で見せていくことが、彼の中でのシュミレーションを通して出来るようになる。それは今後有刺鉄線が売れてきて、スタジオでセットを組んだりしてのビデオ撮影をすることが可能になった時にも、かならずこの成長が生きてくるのだと思うのだ。

 撮影が終わり、近くのファミレスでジャケデザインの打ち合わせ等を済ませ、一路帰途へ。彼らの家をそれぞれ経由しながら会社に戻った時は既に午前5時半。ちょっと休んで、今このブログを書いている。ブログが終わったら、ビデオの編集を24時間以内に完成させるために仕事が続くのである。