Sunday, December 21, 2008

救済法

 オウムの被害者を救ってくれるということらしい。救済法が施行されたとかいうニュースを見る。
 
 って、遅くないですか。いや、生ぬるい。遅過ぎやしないですか? 
 
 被害者の一体どのくらいの人がすでに鬼籍に入っているのだろうか。サリン被害の後遺症で亡くなった方も、多少の後遺症はあってもそれ以外の理由で亡くなった方もいるだろう。その人たちの気持ちを考えてみる。それは残された人たちへの不安と後悔だ。悔やむったってたまたま偶然にその列車に乗ったというだけのことである。その偶然を反省する以外になにを改めることができるのか。原因を克服できずに結果を受ける。これほどの不公平はないだろう。しかしそんな中で開き直れる人はまだ幸せで、結果として家族に迷惑をかけてしまうとか、一緒にいてやることが出来ないとか、そんな思いを皆抱えながら最期を迎えたりしているのではないだろうか。せめて、国がそのあとの手当を考えてくれるかもしれない。そんなことくらいでも不安を取り除くことは出来る。神や仏を信じるのは来世への希望なら、残す現在への安心を与えるのはこの現在の社会がどうあるのかということだけだ。寿命ならば仕方ない。いずれ来る順番だ。だから残る者たちもそれなりの覚悟をして生きていくしかないと思えるだろう。だけど、それは順番ではなく、逆宝くじのようなアンラッキーの結果であり、その不幸を少しでも取り除くような、そんなことをこの社会はできるのか、それとも出来ないのか。そういうことが問われているのではないかと思う。というより、そんなことを今頃になって問うていてどうするのだ、一体。
 
 にも関わらず、今頃救済をするとかしないとか。しかも申請手続きを受け付けるとか。どうしてお役所仕事ってこうなんだろうねって、ちょっと呆れる。救済法はどうしてこんなに遅くなったのか。法律が成立するのに時間がかかったのか、それとも試行までの時間を置く必要があったのか? なにが事実で正解なのかはわからないけれど、わからない人が大半だということで考えると、そういう大半の人のうちのさらに大半の人は、国のやることに呆れるだろう。そして失望するだろう。そういう小さな失望の積み重ねの先に、大きな失望と反政府主義、アナキズムというものがあるということを、どうか国会の人とか官僚の人とかには思い起こしてもらいたいと切に思う。