Monday, December 22, 2008

バンドマンへの手紙

あるバンドマンから相談を受けた。彼が今取り組んでいるレコーディングに自信が持てなくなり、リリースそのものを考え直したいという相談だった。もちろんこちらのリリース計画という問題もある。だが、音楽に取り組むミュージシャンのことは常に気がかりなのだ。返事をまとめるまでに時間がかかったけれど、僕なりの意見を投げてみようと思った。特定を避ける意味でも一部伏せ字にして、なおかつ一部削除したものだが、基本的にほぼ全文をここで紹介したい。

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 メールありがとうございます。返事が遅くなってすみません。

 バンドを維持するというのは非常に大変なことです。だからこそバンドが続くということ自体が一種の奇跡だし、リスペクトの対象となるのだと思います。キラキラレコードの関係でも、解散とか脱退は日常茶飯事です。だから、○○くんがバンドの結束を図ることが出来なかったとしても、それは特に非難されるべき問題とは思いません。

 思うに、○○くんの場合は自分の頭の中に音楽の形がかなりの程度出来上がっていて、それをバンドという人間同士の組合せの中でどう再現するかということを、このところは追求していたのだろうと感じています。ですがそれは最初から結構難しいことでもあっただろうと思うのです。

 なぜなら、まず「他のメンバー自身がそれぞれに音楽の理想を持っている」ということもあり、バンドでたった1人のメンバーの理想を追求するということが、他のメンバーの理想を押しとどめてしまうということにつながりかねないという問題がひとつ考えられます。押しとどめられると、普通、人はいじけます。いじけると一緒にやっていくのが嫌になります。その結果、脱退とかいう状況が生まれてくるのですね。

 そのステップを乗り越えて、○○くんの理想を他のメンバーも理解したとして、次にはその理想の音を再現する能力と意思がどこまで備わっているのかという問題も考えられます。世の中にはそんなに上手な人ばかりがいるわけではありません。上手な人は既にどこかでバンドメンバーとして活動していることが多く、1人あぶれている人をとりあえず仲間にしたという状況では、その人がプレイヤーとして抜きん出ているという可能性はそう高くないといえるでしょう。そうすると、練習はするもののうまくいかない、録音するとリズムがずれるとか、いろいろな思いも寄らない結果になってしまう。

 しかし、音楽活動とはそういうことの繰り返しです。

 そこで、○○くんに逆に質問をしたいのですが、納得とか満足というものはいったいどういうものなのでしょうか?

 こういう質問をする背景として、僕にもひとつの考え方というものがあります。それは、音楽には正解がないということです。

 今○○くんは●●●●としてセカンドアルバムを作ろうと必死に頑張っている最中です。そういう中で試行錯誤を繰り返しています。それはレコーディングの作業の中での試行錯誤もあれば、それ以前の問題としてバンドの形でやっていくのがいいのかどうかという問題での試行錯誤もあるでしょう。ある人を入れてみたものの長続きしないとか、だから脱退してもらったり、向こうから脱退していったり、そんなことの繰り返しでしょう。ライブも1人でやってみたり、バンドの形でやってみたり、いろいろやってみて、自分にとってもっとも最適な形はなにか? それを探す旅の途中といってもいいのかもしれません。

 でも、最適な形はなにかという問いに対して、答えはありません。もしそんなものがあるのだとしたら、世の中のバンドはすべてその形を取っているはずです。しかし現実にはいろいろな音楽ジャンルがあり、いろいろなメンバー編成がある。もちろんソロミュージシャンだっている。それはそれぞれが自分たちの今ある形を最高だと思ってやっているか、もしくはその形でしか活動できないという事情を抱えていて、それでもやっていこうと必死にやっているからだと思います。なぜなのでしょうか? それは、答えは「今の形」がそれだからです。今最高だと思って一緒にやっているメンバーと一生ずっとやっていけるかというと、そんなことは奇跡に近いほど可能性が低いことです。バンドが解散してソロミュージシャンになったとしたら、その時はその形で出来ることを必死でやるしかない。そうやって、「今」の形を必死にみんな頑張っているということなのだろうと思うのです。

 どんな形を取ろうと、人はいろいろと意見を言います。褒めてくれる人も、非難してくる人もいます。どんな音楽だって、それは音楽に限らず、絵や映像、政治活動とか飲食店経営などもそうだし、会社員として普通に勤務する人の生活に対しても、それを知った人はいろいろなことをいいます。ソロ活動をしている人に「バンドの方がいいんじゃない」とか言うだろうし、バンドで活動していれば「ソロの方が身軽で自由だよ」とか言うでしょう。それは、どんなことにも良い面と悪い面が共存しているからです。
バンドマンは基本的にナイーブです。○○くんはナイーブの筆頭といっても過言ではないかもしれませんが、でも○○くんだけがナイーブなのではありません。多くのバンドマンと接して感じるのは、バンドマンは感想を欲するけれども、非難に対してはものすごく恐れている。音楽を非難されるとまるで自分自身の存在を否定されているかのごとくに萎縮してしまう。そんな姿を見るときに、僕は必ず「心配する必要はない、どんなことをやっても必ず非難されるんだから。その非難は、時として嫉妬だったりすることも多いんだ」ということを言います。事実そうですし、無責任な非難に萎縮する義務も必要も全くないと思うのです。

 話は逸れましたが、僕は○○くんに1つアドバイスができるとしたら、それは「今の○○くんの音楽を●●●●として世に出していくことに意味があるのではないか」ということだろうと思います。僕らは今平成の時代に生きています。平成20年もまもなく終わるというこの時代に生きているのです。もしも僕らが1960年代に生きていたのだとしたら、音楽表現も当然変わっていたでしょう。それは音楽に人たちが求めていたことも違うし、僕らが手にすることの出来るテクノロジーもまったく違います。僕らは時にビートルズを嫉妬します。彼らにはまだまだ未開拓な広大な音楽世界が残されていた。しかし2000年代終盤の今、殆どの表現手法はやり尽くされた感があります。ビートルズが今の時代にデビューしたのなら、果たしてあれほどの活躍が出来たのか?それは大いに疑問だと思います。しかし、そんなことはいくら言ってもはじまらない。何故ならビートルズはあの時代にしかデビューできなかったのだし、そして僕らは今この時代に音楽を創るしかないのですから。そしてそれは厳密に言えば、○○くんが今2008年の終わりに出来ることと、2009年に出来ることも結構違うのだと思うのです。そうした考えのもと、僕は○○くんには「今」の自分の音楽に忠実であり、そして自信と誇りを持ってもらいたいと思うのです。もちろん、メンバーが固定できなかったという負い目はあるでしょう。そしてそのために時間を使ってしまって、本来であればここまで出来たのにという理想と現在ある音との違いはあるのでしょう。でも、それが●●●●の2008年であったはずです。その過程で○○くんがサボっていて、一生懸命にトライをしていなかったのであれば、恥ずかしい思いをしても仕方がありません。しかし、自分の中での理想の音楽を目指してトライし、頑張ってきた結果だというのであれば、それを恥じる必要など何もなく、むしろ胸を張って堂々としていていいのだろうと思うのです。

 例え話になりますが、受験に失敗して浪人をすることになったとしましょう。その時に大切なのは合格したかどうかではなく、真剣に合格に向けて頑張ったかということだと思うのです。真剣に頑張っても運悪く不合格になることもある。また、いい加減にやっていても運良く合格することもある。僕はたとえ不合格になったとしても、それまでの過程で頑張ったことそのものが価値があると思うし、そこで頑張ってきたという経験が、その後の活動に対して最も重要な要素だと考えます。僕自身大学受験で2浪していますし、もしかしたらそれを回り道だと思う人もいるかもしれません。でも不合格という現実を知り、だからこそ頑張らなければいけないという気持ちがさらに強くなり、人生の一時期、真剣に取り組んだということが、今の自分の支えになっているような気がします。そういう意味でも、浪人体験はけっして恥ずべきことなんかではなかったなと考えています。

 ○○くんの中に、現時点での作品のクオリティに納得がいかない部分があるということは既に聞きました。ではそれはどの程度の満足と不満足なのかということも問題になってくるのではないでしょうか。いうまでもなく、完璧を目指します。でも、完璧など有り得ないのが現実です。では完璧と非完璧という相容れない2つの状況の間にあるエリアの、一体どこに着地点があるのかということが問題になってくるわけです。これは本当に問題です。なぜなら答えなど存在しないからです。もっといえば、今「完璧」と思ったものであっても、後日考えてみれば「完璧じゃなかったんじゃないか」という疑問は普通に起こってきますし、そして自分が完璧だと思っている音であっても、第三者はいろいろと非難してきたりするのです。そうなってくると本当に答えは見つからず、結果的には2つの選択肢から選ぶということになってしまいます。それは「本当に完璧なものが出来るまで追求し尽くす」という第一の選択肢と、「その時の主観で、なんとか無理矢理にでも納得できる形でOKをだす」という第二の選択肢のどちらかです。音楽家は芸術家ですから、第一の選択肢の方が純粋で真摯な態度だと思いがちです。しかし、それは時に逃避でもあるわけです。なぜならそんな結果は存在しないのですから。第二の選択肢は無責任のように思われるかもしれません。しかし、形にしなければ結果はついてこないし、結果がなければ評価もない。もっといえば、存在すらなかったことになってしまう場合もあるのです。僕はそのことを重視します。これは決して適当にやっていこうよということではありません。今の結果や結果に対する評価から逃げないという、そういう真摯な態度だと考えているのです。

 これまた話が逸れるかもしれませんが、来年△△△△というバンドがCDを発売します。彼らは今年の9月に解散状態に陥りました。バンドメンバー間での意識の違いが発端でしたが、これ以上一緒にはやれないという結論に達したのです。そこで、バンドのリーダーが、バンドをやめて田舎に帰ろうという思いを持ちながらもやはり辞められず、自分以外のメンバーを探して復活することにしたのです。バンドでボーカルが変わるということはかなり大きな変化ですし、以前のボーカルはそこそこ上手かったので、新しいボーカルと練習するうちに「まだまだだな」という思いがありました。そんなとき、10月の末に、あるCM制作会社の人から某携帯電話のCMに△△△△を採用することを検討したいという話が舞い込みました。しかし新しいボーカルでの音源はなく、プレゼンにかけることも出来ずにその話は立ち消えに。僕らは大いに落胆しましたが、その時に彼らは、「いつまでも練習しているだけでは前に進めないということをメンバー自身が強く感じ、まだまだ不完全かもしれないけれど、なんとか作品を形にしたい、そしてそれを自分たちのスタート地点にしたいんだ」という気持ちになりました。それで急遽、CDをリリースする方向で動き出すことにしたのです。それから僅かの間に、練習とアレンジとレコーディングをしました。この中で彼らは「やれば出来ることをしてこなかった。CMの話があって、それ自体はうまくいかなかったけれども、でもそのおかげで自分たちに足りなかったものがなんだったのかということに気付くことが出来たから、結果として良かった。もしあの話がなければ今でもレコーディングはおろか、ライブさえやれていなかったかもしれない」ということを言っていました。

 僕は、○○くんにもその「なにか」を知ってもらいたいと思うのです。きっとやれると思うのです。それはなにも超一流アーチストと同じ音作りなんかではなくて、○○くんに今できるすべてで構わないと思うのです。そして今、○○くんの手には未完成ながら頑張って創ってきた音源がある。それをどう評価するかはもう他人に任せておけばいいのではないでしょうか。今の○○くんの音、●●●●のサウンドを、そのまま出していくことで、初めてその次のステップにうつれるのだと思います。

 長くなってしまいましたね。僕も長時間を使って書いてみました。このメールで○○くんがなにか吹っ切れて、一歩でも前に進むことができれば、一生懸命書いた甲斐があります。

 それでは、○○くんの考えをまた連絡してください。お待ちしています。

キラキラレコード、大島栄二

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この手紙もいろいろな批判を受けるかもしれない。なんのためにそんなことを書くのかとか、それでミュージシャンをコントロールしようとしているだろうとか、いう人はいて当然だと思う。コントロールの反対は放置だと思う。レーベルの存在とは、平時はさほど意味がないのかもしれない。しかし、ものすごく売れているときの事務作業をさばくという役割と、行き詰まっている時の相談役というこの2つが、レーベルの意義ではないかと思うのである。ある時は突き放すだろう。そしてあるときはあとちょっとの気持ちの支えで前に進めるというミュージシャンの支えだったり後押しをするだろう。今回の手紙がどういう役割になったのかはよくわからない。だが、僕としては十分ではないかもしれないが、僕に出来る言葉を投げることしか出来ない場合もあるのだ。