Wednesday, January 14, 2009

フィクサー


「マイケルが自分で、アーサーがあいつなのだ」

 ジョージクルーニー主演の映画『フィクサー』をDVDで観る。大企業の集団訴訟に携わる大手弁護士事務所を舞台にした人間ドラマ。多くの映画評ではこれを社会派サスペンスと断じているが、僕はそうではないと思う。これはごく個人的な人間ドラマなのだ。
 
 人は誰しも完全なる自由に浸ってはいない。否応なしに現実の問題やプレッシャーに曝される。その中でいろいろな選択を迫られるし、その選択の積み重ねが人間そのものなのだし、人生そのものなのだ。なぜなら、その選択の結果の中に、その人の価値観というものが如実に現れるからである。多くの人は正義を大事なことだと言うだろう。もちろんだ。偽悪をうそぶく人であっても、その人の中の正義というものが周囲から悪だと断定されるだけのことであって、選ぶものがその人の中の正義なのだ。
 
 だが、正義とはなんなんだろう。平和とか、慈愛とか、そんな言葉で語られるあいだはまだまだ本物の選択とはいえない。一般論なんてクソくらえだ。金とか、家族とか、友情とか、自己保身とか、名誉とかプライドとか、いろいろなものがあったりする。単に金だけをとっても、今裕福にしていてさらにもうちょっとの贅沢のためのお金が欲しいということと、この金がなければ自殺するしかないというようなものとはまったく意味が違う。普通だったら自分の命が大切なのだが、それを上回る価値、すなわち正義というものもある。この映画の主人公は、まさにそういう追いつめられた「正義」の条件が一時に身に降りかかり、どれもが大事だと思えるいくつかの、しかもそれらが全部対立するという中で、何を選択するのか。それがこの映画が優れた人間ドラマだと思えるポイントなのであった。
 
 ジョージクルーニー演じるマイケルは強い人間だ。周囲からはそう思われている。だが、いろいろなトラブルの前では弱い人間でしかない。でも、選ばなければならないのだ。どんな選択肢を選んだところで、他の道を断ったという事実は残るし、それが後悔につながる。ではどれを選べばもっとも後悔が少ないのか。そういう選択をしていくと、どんどんと立場を失っていくことになる。それは自明だ。生き方としては損なのかもしれない。だが、それが弱い人間の選択という形なのであり、誠実な人生というのはそもそもそういうものなのかもしれないとか思わされてしまう。
 
 だからこそ、観ていて僕は引き込まれるのだ。感情移入もする。「マイケルはまさに俺自身だ。だとするとアーサーはあいつか。自分はそういう状況になったときに、どういう選択をすることができるのだろうか」と。
 
 このドラマの中には「強い」生き方をする人間と「弱い」生き方をする人間が登場する。上手く立ち回る人間もいれば不器用に堕ちていく人間もいる。そういう人間模様が最後にはどうなるのか。それが見事に描かれていて面白かった。エンドロールにかかる最後のシーンで、一言も発しないジョージクルーニーが表情だけでいい演技をする。それを観るだけでもこの映画の価値があるといえるだろう。もっとも、全編を観ないことにはこのシーンの意味も入ってこないのだろうが。