Tuesday, December 30, 2008

乱の時代

 最近の政治情勢と経済情勢を評するときにテレビメディアコメンテーターの大勢を占めているのは、「この100年に一度という経済の非常時に政治が混乱して国会が進まないというのはどういうことなんだ、もう与党も野党も一致協力して法案を成立させる方向に向かえないのか」という意見だ。
 
 だが、これはまったく的の外れた意見である。というか、意見でも何でもない。こういうことを臆面もなく叫んでいる人が一部一定の割合で存在するのは当然だし、そういう声も遮断することなく取り上げることは悪くない。だが、マスコミに出るコメンテーターたちがそろってそんな声を挙げ、それが国民として考える当たり前の常識なんだとでもミスリードしようとしている(ミスリードになるという自覚はないのかもしれないが)のはちょっと問題だなあと思うのである。
 
 そもそも、政治とはそういうものだと考えなければならない。今は言論で争っているが、政治とは権力闘争であり、昔は大名同士が武力闘争をしていたのである。現在だって武力で争っている国は沢山あるし、政治というものはそもそもそういうものなのだ。武力で争えば周辺住民は戦火に怯えながら暮らすし、田畑は踏み荒らされ、村そのものを焼き払われたりもする。だが武力闘争をしている人たちには市民の苦労とか悲しみなどお構いなしだし、結果覇権を取った勝者は戦闘で疲弊した自らの財力を整えるため、田畑を焼き払われた農民に過大な年貢を課す。それが政治というものの正体なのだ。
 
 そんな彼らに「戦うな」とか言うこと自体にまったく意味がない。それはコメンテーターに「うるさいから黙れ」とか、レーサーに「ガソリンの使いすぎでエコじゃないから60km/hで運転しろ」とかいうのとあまり変わらない。無駄である。意味がない。
 
 では政治は何のためにあるのか。それは国家国民のためである。しかも広い意味で国家国民のためであって、だからその「ため」というのが国民にとっての今日のメシというものを特定して指しているのではないのだということをもっと考えなければならないのである。もちろん「今日のメシ」も重要なテーマである。しかし同時に「明日のメシ」のことや、「メシを食う意味」のことなんかも考えていかないといけないし、そのことを我々は考えなければならない。もちろんマスコミは今日の危機を声高に必要以上に騒ぎ立てるのが仕事なので、それ自体は放っておく必要があるのかもしれないが、それを見て軽々に同調しないようにしたいと思う。
 
 そもそも今「動かない」ということになっているのは、政治が変わるスピードが遅い仕組みになっていることが原因である。国民が騒いでも政治にはすぐに関係ないし、どうでもいいねと思っていられる制度なのである。今ねじれになっている根本原因は衆参の議席数バランスに問題があるのだが、これは最大で6年前の民意が現時点の政局に影響を及ぼすし、衆参同日選挙でもなければ、現在の国会の構成バランスが3度の民意で成立しているということが問題の根幹であると思うのである。小泉ブームに沸いた3年半前、安倍さんが支持を落としつつあった1年半前。5年半前ってなんだったっけ? まあそのくらいの時代の気分が、現在の我々の生活に影響を及ぼしている。一方でアメリカはこの不況直撃にもかかわらずオバマ新政権にチェンジしようとすることによって国民が期待を持ち得たりしている。その姿を見るにつけ、ああ、今の日本にはそういうダイナミズムというものはそうそうないのだなという気もしてしまうのだ。
 
 で、そういう選挙制度の悪弊を改善すべく動き始めてもう15年以上たとうとしているが、まだそれは終わっていない。自民に本当に体力がなくなり、民主が2期ほど政権を担当して初めて自民と対等な2大政党になれるのだろうし、そうなったときに民主があれほど言っていた選挙制度改革をさらに推し進めることが出来るのか? 自らの手に権力を握ったときに、それを失いやすくするかもしれない制度改革を推し進めていく意志を持ちうるのか。そういうところが問われてくるのであるが、その是非、有無を問う以前に、自民がその改革をやる可能性は万に一つも無いわけで、だから民主党の政権与党の資質云々を検証する前にともかくも民主党に政権を取ってもらわなければ話は先に進まないのだ。そしてそれ無しに民意が政治に反映するということはなく、公明党の集票力頼みの自民党が給付金とかやる羽目になったり、相変わらずの道路利権にうごめく人たちの言いなりになったりすることが続くという未来しか手に出来ないということになってしまう。
 
 それが嫌だと思うから、何とか政権交代に一縷の望みを託したいのだ。政権交代すればバラ色だとか、そんな過大な評価とか期待をしているわけではない。そういうことの先にしか、僅かであるかもしれないけれど光は見えてこないと、そういうことなのである。
 
 それに対して「野党は政局優先させるな」という声を発するのは、それは与党に組みするだけの、猫騙しのような姑息な戦法であり、各局コメンテーターたちは与党の走狗ではないと思いたいが、もしかするとそうなのかもしれないし、そうでないというのであれば、そんな姑息な戦法にまんまと乗せられないようにしてもらいたいと思うのである。
 
 もちろん、選挙制度が改革されることが最終の目的なんかではない。我々国民にとって必要なのは制度ではなく果実だ。だが今の果実は将来の世代の果実を先取りすることでバーチャルに得られている果実に過ぎず、しかもその将来の世代にまともな教育を与えることを(大人の都合で)止めてしまっている。これでは未来など感じられないと誰しも思ったとしても当然ことだろう。そんな状態にしているのは、政治というよりもむしろ行政の方であり、その行政の愚行にストップをかけられない政治の弱さともたれ合い状況こそが不安の根幹であり、そこを直せるのかどうかという能力の有無を100%保証することは出来ないだろうが、それでもそこに突き進む以外に希望の目はないのだということを、もっと多くの識者たちは声に出して発して欲しいのだ。