Monday, January 19, 2009

経験と感慨


 土曜日に友人の結婚式で横浜へ。歴史あるホテルだがチャペルは最上階の近代的な雰囲気でオシャレな感じ。海や街が一望出来る眺めも清々しい。チャペルの隣に「中庭がありますので皆さんこちらに」と呼ばれ、列席する人たちが移動する。中庭ってどういうことだよと思っていたら、そのスペースだけ屋根がないのだ。これが風呂だったら露天ということか。粋な造りになっているなと思った。晴れたのは2人の日頃の行いが良かったからだろう。だが季節が季節なので「外」を予期していない格好からするとちょっと肌寒かった。だが肌寒いとか、そんなことを言っている場合ではないし、列席した人たちも写真とったりフラワーシャワーを浴びせたりしていた。

 ホテル内の別会場に移動しての披露宴はうってかわって歴史を感じさせる厳かな場所で、こういうのが歴史あるホテルの格というものかなと思った。出てくるフランス料理も日頃は絶対に目にしないようなものばかりで十分に満足。写真は最初に出てきた「モッツァレラチーズ、旬野菜、魚介類のジュレ仕立て」というやつだ。携帯の写真でちょっとピンぼけだったのがちょっと残念だ。

 自分自身昨年3月に結婚式をして、準備とかもそれなりに大変だったし、それだけに招待した人たちが全員来てくれたのが嬉しかったし、料理とかもおいしかったよと言ってもらえて、全体的に楽しんでもらったのを実感出来て、それでホッとしたというか、やってよかったなという感慨を持ったのだ。結婚式は、基本は結婚する2人のためのものであるが、本人にとっては来てくれる人たちがどう思ってくれるのかということが非常に重要だと思う。例えていうならば、自宅でパーティーをやったとしよう。その時に手料理を振る舞ったりして、その料理がどう評価されるのか。本当に美味いといってもらえるのか。美味いからといって、準備している量が足りなくって満腹ではないという感じの物足りなさが残ると困るし、逆に残ってしまうようでもガッカリする。みんなに満足してもらえるのかどうかが、やはり招待する側としては非常に気になるところだ。結婚の披露宴なんかだと普通は手料理ではないし、プロの料理とはいえ、それをチョイスしたのは自分だと思うと、満足してもらえるのだろうかということなんかはやはり気になるところだ。

 もちろん料理だけではなく、進行なんかでも心配はある。プログラム内容は大丈夫なんだろうか、スピーチがつまらなかったらどうしよう。まあスピーチは誰でもいいということはないし、招待客の並びからすればこの人にお願いするしかなかったりするし、その人の話がつまらないことまで責任は負えんが、それでも結果として「話が長かったね」とかいうことになれば、なんか自分に責任があるような気にもなってくる。

 引き出物だってチョイスは結構難しい。こんなものでいいのだろうか? センスがないとか思われたりするんじゃないだろうか? 予算だって当然ある。馬鹿みたいに高いものを選べば喜んでもらえる確率は上がるのだろうが、無闇に予算を上げるわけにもいかない。限られた条件の中で選ばなければいけないのだが、若い人や年配の人、家族持ちの人に独身者、生活レベルの違いや、男女によっても好みや使い勝手は違うし、そんなものは既に持っているということになれば「こんなのいらない」とか思われてしまうだろうし、それはセンスとか予算とはまったく違うファクターとして厳然とあるのだ。だったらカタログで選んでもらうやつにしたらとかいう手もあるものの、それだとそもそもセンスを放棄するようで、面白くなかったりする。

 そんなことをいろいろ考えていると、楽しいけれども面倒だったりして、結局、すべてのセレモニーをやって、よかったと感じるのは、自分たちが楽しいというプラスの喜びというより、クレームもなく概ね好評だったという、マイナスを避けられたという安堵の方が強かったんじゃないかと思う。

 そんなことを体験すると、友人の結婚式に出る時の気持ちも全然違ったものになったような気がする。イベントを開く。それは彼らの勝手である。出席するもしないもこちらの自由だし、ご祝儀をいくら包むのかもこちらの裁量ひとつだ。常識的に自分の年齢と相手との関係性だといくらくらいというある種のルールめいたものはあるが、それに従わないといけない理由なんてどこにもない。で、そのルールに従った額を包む時に、「ルールだから」と思うとなんかお金を出すのが嫌な感じになる。実際これまでに出席した結婚式ではそうだったように思う。もちろん僕の懐具合にもよるのだろうが、じゃあ現時点での懐具合が今までにも増して良好かというとそんなことはまったくない。それでも、昨日の僕は友人の結婚式に当たって、「出来ることをしてあげたい」という気持ちがつよく、裕福でもなんでもないのに、なけなしの現ナマを快く祝儀袋の中に突っ込んだのであった。

 
 一緒に出席した友人は二次会に出るかどうかを迷っていた。でも僕は二次会に出るのに何の躊躇もない。飲みたいわけではもちろんなく、そこでのメシを食いたいわけでもない。だが彼らが新しい船出をする時に企画したいくつかのイベントには出たいと思ったのである。それは僕自身が出るということについて僕自身の側に価値があるのではなく、彼らが企画した催しが企画意図通りの首尾よいことになるということで、スムーズなスタートを切ってもらいたいという、いわば彼らサイドの価値に協力したいというものなのである。

 だからといって、二次会に出なかった友人を非難しようということではない。僕が持っていたことがエラいということでもないし、そういう優劣の問題なんかではまったくない。その友人は独身で、したがって結婚式をしたこともない。僕だって数年前の独身時代には「二次会、面倒だなあ」とか思っていたわけで、それは経験の違いが生む価値観の違いということにすぎないのだ。人間が違えば人生も違うし、通過してきた経験もまったく違う。その結果身に付く価値観も当然違っていて、それでどちらがエラいということはまったくなくて、僕が体験していない経験を彼もしてるし、その結果導かれる感覚が僕と同じであるはずもなく、僕の考えが彼にはわからないこともあるのと同時に、彼の考えが僕にはわからないということもある。それはどちらがいいとか悪いということではない。友人が自分とまったく同じだなんてつまらないし、彼や他の友人たちとも、ケンケンガクガクの話をしたりしながら、それを結構楽しんできて、それで20年来の友人として続いているのだろうと思う。

 そういう彼が披露宴のひな壇にいる新郎新婦を見ていて、どのような感慨を持っているのだろうとか、想像してみた。僕はというと、自分が結婚をして、今の生活に満足しているから、ああ、ひな壇にいる友人はこれから幸せになっていくだろうなあとか思った。それは、自分自身が結構理屈っぽくて、頑固だったりする性格でこれまでやってきたのだが、結婚して、僕とは結構違う考え方や価値観を持っている奥さんと一緒にいることで、違うことの衝突がマイナスにいくのではなくて、むしろ自分を見つめ直す機会になったりするし、それによって自分の気持ちがより穏やかになっていったりするのが判るからだ。今日結婚した友人もどちらかというと僕に似ていて、頑固だし変わった性格で、それはそれで孤高の生き方も出来る人ではあるのだが、違った人格との生活の中で、いろいろな意味で幅が出てくるだろうと思うのである。だからこれから幸せになるんじゃないかとか思うのだ。でもそんなことを独身時代に考えたかというと、そんなことはまったくない。だから当然、一緒に列席した友人もそんなことは感じていないだろう。同じものを見ても、経験とかバックグラウンドの違いで感慨だって変わってくる。そう思うとすごく不思議だし、その人によって、街並の景色とか、野に咲く花の一輪さえも見え方は違うのだ。結婚していても幸せな人はいるし不幸せな人もいる。独身だからといって幸せになることが許されないわけではなくて、その状況に応じた種類の幸せを、つかむことも出来れば、つかみ損なうこともある。僕が結婚する友人を見て、幸せになるだろうと思っているその隣で、友人がどう思っているのか。それは、結婚するということから「不幸になればいい」なんてことはもちろん思ってはいないだろうけれど、自分はそれとは違う形であっても、幸せをゲットするぞと思っているのかもしれないし、オレも結婚したいなあと思っているのかもしれない。まあデリケートなことなので直裁に聞くことは出来ないから結論等はないのだが、それぞれがそれぞれの価値観で、見るものをまったく別の色や形で見ているのかとか思って、なんかそれもまた感慨深くて面白かった。

 ともかく、結婚した友達よおめでとう。お幸せに。近いうちに遊びにいくよ。これからもよろしく。