Monday, April 13, 2009

BANKー堕ちた巨像


 クライブオーウェン主演のサスペンスドラマ。結論から言うと、面白かった。
 
 クライブオーウェンをスターと見るかどうか、ナオミワッツをスターと見るか、その辺の判断はいろいろあるだろうか、僕は、ハリウッドスターというには地味すぎるという感がある。だから、この映画にはスターがいないと思うのだ。スター不在の映画。それはそのまま内容勝負であることを余儀なくされるといえるだろう。そして、その内容での勝負に見事に勝利したといっていいのだろうと思う。
 
 表面的にはこれはクライムサスペンスである。世界的メガバンクの不正を暴こうとする捜査官サリンジャーの戦いを描いている。インターポールに籍を置く彼はロンドン時代にも同じ戦いをして、破れている。彼にとっての正義とは何なのか、同僚や証言者たちが殺された。それに対する復讐なのか。
 
 本来正義とは社会正義を指すべきだ。捜査機関の捜査官であれば、そこは揺るぐべきところではない。だがその社会正義を構成する要因についての認識が揺らぐと、社会正義の実現の方法も変わってくる。それは揺るぎなのか、変節なのか。そして実現しようとして狙うべきターゲットの設定自体にも意義の揺れから揺らぎが起こってきた場合、結局は自分にとって大切なものとは一体なんなのかということが見えなくなってしまう。
 
 社会正義は、一人の力で解決されるものではないのかもしれない。解決されると思ってしまうと、その考えの行き着くところは独裁の肯定だ。もちろんそれでいい場合もあるかもしれない。だが、独裁の殆どはうまくいかない。どんなルールも歪みを生むのだとしたら、その歪みによって虐げられざるを得ない人は恨みを抱く。その恨みが、別の社会正義を欲するようになるだろう。だから、社会の正義は民主主義によってしか成立しないのだろうと思うのである。
 
 この映画でも、そういった正義とは何かということ、そして個による活動の限界、そして、決断というものの重みということが描かれる。派手なアクションや銃撃戦はそれを彩るおまけみたいなものだ。映画だから、そういう部分もないといけない。最大公約数の満足を得なければ収益は上がらない。だが、この映画が描いているのは、社会と個のせめぎ合いなのだろうと僕は思う。そのせめぎ合いの中心にいるのは主人公のサリンジャーである。彼は操作機関の一員として社会正義を実現するという大義の元に活動する。だが、社会正義を実現させる立場の捜査機関自体が彼の操作に疑問を持ち、サリンジャーの抵抗組織となっていく。サリンジャーのチームは追いつめられながらも、証拠に迫り、追い、追われ、戦っていく。だがサリンジャーが初めて知る事実や、考え方に、彼自身が翻弄され、自らの立脚点を見失いそうになる。それは最後の最後までそうなのだ。なぜなら、彼は自らのモチベーションの根源がどこにあるのかということについての認識が甘く、正義のためだと口にするものの、実はそれが私怨であったり、仲間の死への復讐であったりするということを正面から理解しようとしていないのだ。そして、チームを大切にするといいながらも、根拠がチームのメンバーに対する情が大きな要素だったりするから、一緒に取り組んできたことをひっくり返したりするし、それが結局はチームとして一緒に運命をともにするという覚悟を、相手にさせないという美名の元に、実は自分自身がチームへの信頼を欠いているということを隠してしまったりするのである。正義の実現のためにはルールを越えてもいい。それは本当に正義を理解している行為ではなく、自分がルールなのだということをどこかで思っているわけだし、結局は自らの中に他者を尊敬しない独裁の芽を持っているということになるのではないだろうか。
 
 独裁がいけないのではない。そのことに気がついていないということが恐ろしいことなのだ。この中には悪者のように描かれている登場人物がたくさん出てくる。だがもしも彼らの中に悪が存在するとしたら、それは彼らのルールが「自らの正義」に由来しているということに他ならず、だから主人公サイドの正義から照らしてみた時には悪なのだろうが、だが、彼ら「悪」のモチベーションは非常に明快で、だから、一つ一つの行動に躊躇がない。それは結構素敵なことだと思ったりする。社会がどう思うかなんて関係ないのだ。それは危険な思想のように感じる部分もありながら、でも、実際にはルールという公正さを必要以上に信じて、結局は自分の中にある私の部分を押さえきれずにいる、さらには都合のいい時だけ個と社会というダブルスタンダードを使い分けることによって生まれてくる歪みというものに較べれば、私に徹底して行動するということは、あながち悪いことではないのではないだろうかという気がするのだ。
 
 ただし、人間はそういった理屈とか原則論などに無批判に従えるものではない。たとえそれによって生まれる結果がより難しい方向に向くとしても、そしてその結果自らのダブルスタンダードに気付かされて呆然としたとしても、それ自体を責めることが出来るような人もいないのではないかとか、思った。主人公のサリンジャーは、チームの人たちの大義を本当に理解することなく、突き進んだ結果戸惑い、そして立ち尽くす。一方でサリンジャーの大義と自分の大義のずれを認識しながらも、チームの一員としてのサリンジャーの決断を容認した友人は、やがて追うところの社会正義を求め得る立場になっていく。もちろんそれで何か決定的な変化が起こるわけではないだろう。だが、そういう人たちの小さな積み重ねによって、社会の正義というものはちょっとずつだが実現につながっていくのかもしれないと、ちょっとだけ思いたくなった。