Friday, April 10, 2009

首相会見


 5時から麻生首相の記者会見が行われた。というか、今テレビで流れている。見ていて、なんか笑っちゃう。なぜなら、この会見というか演説は、対処療法の説明であってビジョン提示ではないからだ。これなら総理大臣でなくても官僚のトップでも出来る。
 
 政治家に何を期待したいのか。それはビジョンである。その頂点である総理大臣がビジョンを語らずしてどうするのか。それを問いたい。これほどの大ばらまき予算を実施して、これは恒常的なものではなく臨時の措置なのだという以上は、それをしなければいけない現状についてどのように考えているのか、未曾有の経済危機というのであればなぜそれが起こったのか、誰がどのように危機に直面しているのか、予算対策によってどのような状態に持っていきたいのか、臨時の対処ではなく、この先にどのような社会を目指そうとしているのかということを、語らなければならない。それがまるで語られていないから、笑っちゃうし、官僚にやらせておけよと言いたいし、だから官僚に優しい対応しかしないのかと言いたいのだ。
 
 例えば、「国民の痛みを和らげたい」と言うが、痛みを和らげた後にどのように治療するつもりなのか。死を待つだけの不治の病の人の痛みを和らげるという治療もある。だとしたら、日本はまさに死を待つだけだということになる。そうでないのなら、日本の痛みとはなんなのか、それを和らげた後にどのような治療に取り組むのか。それが語られていないのは残念だ。
 
 北朝鮮に対する制裁措置の延長も決定したというが、制裁して、どうするのか。今でなくても良いが、将来的に北朝鮮にどのようなことを働きかけていくつもりなのか。どのような極東アジアビジョンを持っているのか。それがないのであれば、ただただ拉致被害者たちが歳を取って死に絶えることで、この問題の時効を待っているのかと疑われても仕方がない。
 
 現在小泉元首相の政治に対するバッシングが始まっている。これは当時押さえつけられて恨みを持っている人たちが、この経済危機による不幸の連鎖の原因を小泉政治のせいにすることでわあわあ言っているだけだとしか思わないのだが、なぜあの時の小泉さんに熱狂したかというと、そこにビジョンがあったからである。枝葉末節のことではなく、対立軸を明示し、国民に小泉的ビジョンを示し、「さあ、選ぶのは国民だ。どうする」と問うた。枝葉末節のことは(ほぼ)すべて竹中氏に任せてあった。そしてそれを国民が選んだ。今回の経済危機はなにも小泉ー竹中ラインが押し進めた政治によって起きたのではないが、もしも仮に小泉政治の結果が現在の経済危機だったとしても、それを選んだのも国民なのだから納得できると思う。
 
 一方で、今日の会見で示されたのは、国民全体で15兆円の借金をしますよ、そして国民全体にバラまきますよ、借金は将来の国民が返しますよ、ということに過ぎない。それを決めたのは誰だ? 言うまでもないが、小泉氏のビジョンに賛同した国民である。だが小泉氏の首相退陣以降、3人もの首相が登場したが、その決定に国民は関与していない。そんな基盤にある人が決める15兆円の借金とはなんだろうか? 誰がそれに責任を持てるのだ? いや、誰も持てない。だから選挙をいい加減にしようよと誰もが言ってきたのである。麻生首相もそもそもはそのつもりだったのか、それともそんな顔をしながらも、心の中で「バカ言うなよ、人気いっぱい総理の座に固執してやる」と思っていたのか。今日の会見でも「話し合い解散とか言われているけれども、何を話し合うんでしょうか、言われている意味が分からないから何ともコメントの仕様が無い」なんて言っていた。それが判らないというあたりが、すでに国民主権ということの意味を理解していないということであり、制度上は不備はないのかもしれないが、彼にリーダーの資格はないということなのだろうと思う。そもそも国会議員とは立法府の一員である。立法府とは、既にある法律だけで良いうちは良いのだろうが、やがて歪みが生まれ、新しい事態が起こり、それに対応する法律が必要になるから存在する社会の機能なのである。そこに籍を置く人間は、既存の法律を鵜呑みにすることなく、社会正義のためには法を改めることに躊躇せず、だからつまり法を超えた正義とはなにかについての感覚が鋭敏でなければならないはずである。それが、制度上間違っていないという理由で総理の座に固執し、国民が将来を選ぶ権利を踏みにじっているのだとすれば、大きな認識違いだと言わざるを得ない。解散権とは、制度とか法律とかで行き詰まってしまった状況を一気に改善するために総理に与えられた伝家の宝刀でもあり、制度上間違っていないことを盾にその刀を抜かない、あるいは抜けない人に、そんな権限を与えていても持ち腐れでしかない。