Friday, March 27, 2009

法令遵守と現実の狭間

 昨日のニュース。愛育病院が周産期指定病院の返上を打診しているということだった。最初そのタイトルだけをきいた時には、なんという身勝手な話かと、少々憤りさえ感じたりした。各地で産科医が不足していて、産婦人科をやめてしまう総合病院が多いというのは前から聞いていたし、その流れで、負担の多い指定病院をやめてしまうということだと思ったからだ。しかし内容をよく見てみると、事実はそんな身勝手な話などではまったくなかった。
 
 愛育病院というのは皇族も出産をするようなところで、だからなのか、モチベーションは非常に高いらしい。しかし全国的な産科医不足はここも例外ではないらしい。愛育病院は夜間、常勤医と非常勤医の2人体制で対応しているらしいが、それが労働基準監督署によると改善指導の対象となるというのだ。周産期指定を受けると、24時間態勢で緊急の妊婦の受け入れを拒否できないらしいのだが、当然それに対応するために産科医には過酷な労働実態が余儀なくされる。しかし勤務実態の改善を求めた三田労働基準監督署の是正勧告に基づく対応を取ると、常勤医が足らないケースが生じる。救命救急センターもなく、総合周産期母子医療センターの継続は難しいと判断した。愛育病院の院長は会見で「我々には高いモチベーションもあり、だからこそ無理な勤務であっても社会に必要なことだと思って取り組んできている。しかしそれをやっていることで後になって「愛育病院は法令に違反している」と言われてしまうのであれば、そのモチベーションを維持することは出来ない」と語っていた。
 
 法とは何なのか。指導とは何なのか。正義とは何なのか。法と正義は一致するものではないのか。
 
 思うに、法は完全ではない。なぜなら所詮人間が作っているものだからだ。人間は法を犯す。誤って犯す者、追い込まれて犯す者、意図的に犯す者。様々だ。一方で法を犯さない者もいる。誤らないから犯さない者、追い込まれないから犯さない者、意図しないから犯さない者。やはり様々だ。
 
 愛育病院の場合はどうなんだろうか。このまま「モチベーション」を貫き、医師としての理想を優先させて無理を続けた場合、違法になる。だから「モチベーション」を捨て去ろうというのだ。法はそれを要求する。妊婦がたらい回しになって死亡するという絶望的なニュースを散々聞かされてきて、それでもまだ法は産科医の情熱を否定する。そこには労働者の過労死とか、そっちの部分での問題や懸念があるというのも事実だろう。だが、それによって社会はまた歪んでいく。だとしたら、法とは一体なんなのか?
 
 法を遵守するというのはそれほどに尊いことなのか。いや、言い方を変えよう。それほどに完全な法なのか? 法を守ることが正義を実現することと一致しているといえるのか?
 
 
 問題だと言われ続けている天下りは、完全に法律遵守した行為だ。官僚組織を代表する官房副長官が官僚人事を仕切るという成り行きも法律に則っている。だったら何の問題もないはずだ。だが、現実には問題が多い。それを改善するためには何が必要なのか。それは法を超えたところで貫かれる正義への取り組みが必要なのではないか。
 
 もちろんそれには抵抗がある。愛育病院にも是正勧告が行われた。それにハイハイと従えば何の問題もない。本当に何の問題もないのか? いや、ある。あるだろう。法に違反したという指摘は絶対であるし、指摘をする側は金科玉条、黄門さまの印籠よろしく人々の同意を得る。だから誰かを失脚させたいのならば違法の指摘をすればいい。他のことではなく、ただ一点の違反をすることですべてを否定することが出来る。もしも是正勧告を押して、「妊婦の安心のために頑張ろう」と頑張ったとしたら、あるメディアはバッシングするかもしれない。バッシングが広がれば、愛育病院は違法病院だということに話は膨らみ、だから医療行為の内容まで違法なことをしている。医師を酷使して稼ぎまくる儲け主義だとかまで言われかねない。それがいやなら、勧告を受け入れるしかない。その結果は、周産期医療指定の返上であり、正義とか社会貢献の放棄ということになる。院長は「それでもいいのですか?」ということを、会見で広く問いかけたのだと思った。
 
 昨日大相撲八百長問題裁判の判決が下った。八百長報道をしてきたジャーナリストや報道機関に対して大相撲協会が行った民事裁判だが、原告勝訴、1000万円の慰謝料支払が命じられた。まあおそらく控訴されるのだろうから、まだこの判決が確定した訳ではない。だが、ジャーナリストである武田氏のコメントが可笑しかった。「1000万円という額に驚いた」とのこと。自分たちが行った報道で大相撲協会が失った信頼は1000万円程度のものではないだろう。そしてもしも八百長報道によって失われた信頼を回復させるために、八百長報道を展開し、そしてそれを受けての他報道機関での露出と同じだけの謝罪広告を出したとすれば一体いくらになるのかを考えれば、1000万円なんてとても安い金額だ。しかしその金額を聞いて「驚いた」という。それだけ自分たちの行ってきたことについての重大さに、本人が全く気づいていないということなのだろう。だが、「不正義を行っている」というバッシングが熟慮なしに行われた時にはその影響はとても大きいということであるし、その信憑性に結論が出るのは数年後、もしかすると永遠に出ないかもしれないのに、バッシングの影響はすぐに出てしまう。かつての民主党永田元議員による偽メール事件も検証が不十分のまま行われた結果、相手に対しても名誉毀損をしてしまったし、返す刀で永田議員は結局議員生命どころか本当の生命まで断つことになってしまったし、当時の前原代表も代表職を辞任するはめになった。僕はこの事件は永田議員の功を焦ったうっかりさが問題ではあっただろうが、その永田氏にそのネタを提供した者の悪意、罠にはめようとした悪意を問うべきだと思うのだが、それは闇の中に消え去ってしまっているし、今となっては追求しようもないのだろう。今後もこのような悪意、偽メール事件で言えば民主党を陥れようとする悪意、愛育病院の問題でいえば全体の正義を鑑みることなく自己の遵法のみを押し出した無責任、官僚人事の件でいえばいろいろな問題を押し出すことによって結局焼け太りして、結局やうやむやの中で天下りも続けられるような状況を維持しようとする悪意、八百長報道問題で言えば、騒げると思ったら根拠がなくとも他人をバッシングしてしまい、自らが正義だとまくしたてる悪意。そういったものは無くならないのだろうと思う。
 
 だからそういった悪意や無責任に踊らされないような賢さが、僕らには求められているのではないかと思うのだ。もちろんそんなに賢い動物ではない。遵法と言えばすべて正しいように思ってしまうし、違法行為と言えばすべて、全人格に至るまで間違っているように思ってしまう。判断するには十分な情報量を取り入れることも要求されるのだが、そんな時間はないというのもおおよその場合において当然だろう。だがそれでも、表面的に見えるものだけに踊らされることなく、正しい判断が出来るような人になりたいと思うし、そういう社会に成長していくようであって欲しいと常に思うのだ。