Thursday, April 02, 2009

禁煙拡大

 ちょっと怖いなと思う。禁煙拡大。昨日からJR東日本では駅での喫煙が全面禁止になったらしい。
 
 これまでもホームの隅に喫煙コーナーがあって、その周囲だけもうもうと煙が立ちこめていた。臭かったので、その周辺には寄らないようにした。その近辺の車両に乗り込むと、ギリギリまで喫煙していた人が駆け込んできて、彼らの呼吸で車内にタバコ臭が広がっていた。喫煙コーナーだったら空気はそのうちに拡散してしまうが、車内は密室で、一度臭いにおいが立ち籠むともう逃げられない。最悪だった。
 
 だが、それと喫煙の権利とはまた別の話だ。喫煙は違法ではない。それをなし崩し的に禁止していく動きには違和感を覚える。それが健康とかいうキーワードをベースに広がっていくと、なんか抵抗することが悪だという雰囲気が広がる。それは、自由な社会に於いてとても危険なことだと思うのである。
 
 かつて18世紀フランスの哲学者であり文学者のボルテールは「あなたの意見には賛同しないし、私は命がけで反対する。しかし、あなたが自分のその意見をいう権利については、私は命がけでそれを守る」と言ったらしい。それは要するに、自分にとって不利益を生む意見であっても、その意見を言う権利そのものを否定することは出来ないということで、言論の自由という考え方の根本的かつ決定的な発言なのだと思うのである。ボルテール自身言論弾圧にあい、パリを追われた経験を持つ人で、理不尽な攻撃をたくさん受けていた。言論弾圧なんて、彼自身の「言論の自由」とは全く対峙する考えであって、そういう理屈に基づいて弾圧・追放を受けたら、自分だって同じルールのもとで対抗するしか本当はないのだ。しかしながら、それをやったのでは自分が自分でなくなる。大変な思いをしながら、ヨーロッパを放浪しながらも、自分のルールを曲げることなく生涯を貫き通した姿は美しいし、我々が寄って立つこの自由主義の社会というのは、そういう理想に支えられているはずなのである。
 
 そういう考えからすると、喫煙する人の自由というのはどうやって担保されればいいのだろうかという問題は持ち上がる。しかし、公共のスペースで煙草を吸うということは、周囲にも受動喫煙を強いるのだという主張によって、どんどん隅の方に追いやられている。そして今回、JRでの全面禁煙という事態に至っている。それが正義だという風潮になっている。だが問題は正義とか言うことで語られるべきではない。むしろ、彼らの自由を制限していくことに、正義と反対の方向があるように、僕には思えて仕方ないのだ。
 
 もちろん、昔のようなタバコ吸い放題という時代は復活しないだろう。それは煙草を吸う人の無作法、傍若無人ぶりというのがもともとあって、だから怒れる非喫煙者たちの反撃が、現在の禁煙拡大につながっているといえる。そして今の時点でも、やはり喫煙者が本当に周囲を気遣って喫煙しているとは思い難い。つまり喫煙者たちがもっと周囲と共存する方策を探っていけていたとしたら、今のような禁煙拡大にはつながらなかったのだろうと思う。だが、不躾な振る舞いには強硬な抵抗をがセオリーだ。だから、禁煙拡大派はどんどんと喫煙者には住みにくい社会を作っていく。そこには対立以外の何者もなく、両者が共存できるための知恵などはない。
 
 だが、その対立に於ける他社排斥こそが、自由を脅かす根本になるはずで、だからこそ、こうやってJRのような大きな組織での全面禁煙という現実が、僕になんか恐ろしいなあという気分を起こさせるのである。