Thursday, April 16, 2009

旧交

 学生の頃に仲良しだった友達とは、普通はどういう関係性であるのが多いのだろうか。
 
 僕は友達が多い方では決して無い。知人は多い。多くのバンドマン、ミュージシャンたちと日々接する。僕はそういうミュージシャンとはいい意味で距離を置こうとしている。心を開かないということではない。伝えられることは伝えようと思っているし、耳が痛いことだってズバズバ言いたいと思っていて、そしてやはり毎日そういうことの繰り返しだ。そういう関係は、友人関係であってはいけないと思っている。適度な距離感があって、それで成立するのだと思う。だから彼らとは心交わしても、友人ではない。
 
 友人が少ない僕だが、その少ない友人たちとは深いつながりがあると思っている。学生時代にたまたま同じクラスにさせられたというだけのやつらと、20年とか30年とか40年とか付き合っていけているのはそれだけで素晴らしい。昨日今日出会った知人とは語れないことも、阿吽の呼吸で語れたりする。そういう友の存在というのは他の価値に換算することなど不可能だと思う。小学校中学校、大学に社会人時代と、その時々にもっとも仲良くしてもらっていた友達と、今も通じ合えているのだ。それだけでも、僕のこれまでの人生が無駄ではなかったということを証明してくれているように感じている。
 
 だが、高校時代にもっともつるんでいた友とはこの20年、ほぼ音信不通だった。
 
 その友と、偶然つながることが出来た。メールのやり取りをする機会に恵まれたのだ。嬉しかった。高校時代にほんの3年間毎日のように無駄話をしてきたというだけで、20年のブランクはひとときに解消する。それが旧交というものの力だと思う。お互いの人生は方向を違え、またあの時のように同じ密度で接することはもはや不可能だろう。不可能というか、必要がないのだと思う。当時の距離感が無い、単なるクラスメイトだったら、再び距離感を埋めるために努力を要する。それはまるで初めての訪問先に営業に行って、そこでほんのわずかな共通の話題を拡大に拡大させながら親密度を演出するのと似ていて、共通の話題を既に持っているというだけの話で、そこには努力とか違和感とかが伴うものだ。今回のメールのやり取りはそういうものになるのだろうかとかいう懸念も無かったわけではないけれども、しかし、メール上の言葉を交わすだけで、それが杞憂だったということが判った。
 
 たまに会ったりするかもしれない。会わずにまたずっと時間が過ぎていくのかもしれない。でもそれでも10年単位で存在を確認できるだけでも、旧交というのはいいのかもしれないとか思ったりしたのだ。