Friday, April 24, 2009

失敗する理由

 お昼にラーメン屋さんに入った。お昼といっても3時半くらい。いつも行く定食屋さんは既に休憩に入っている時間で、初めてのお店に立ち寄ったのである。このラーメン屋さん自体つい最近オープンしたお店で、大々的な看板に「いつか食べてみよう」とかは思っていたところだった。

 で、入る。さすがにこの時間にメシ食いたいという人は少ないのか、お客は僕1人だけだった。入り口付近にある券売機にお金を入れる。とその時、店員の女の子が近くに寄ってきて、僕がどのボタンを押すのかを見始めた。なんかプレッシャーを感じる。選択肢は比較的多そうなメニューなのでゆっくり選びたかったのに、なんか気持ちが焦る。そんな気持ちで焦って押すと、女の子はチケットを受け取る前に「○○〜、面固め〜」と、厨房に伝えた。

 席に着くとそこからは厨房が見える。厨房の中の一番貫禄があるオッサンが、さっき僕の注文を伝えた女性店員を厨房に呼び、ラーメンの作り方を指導している。それ、僕の注文のラーメンだよね。僕の注文を教材にしてるよね。説明をしている間に時間はどんどん経過するよね。オッサンは若めの女性店員に指導するのが楽しいのか、終始笑顔。まあそれはいい。店員同士がフレンドリーになることは悪くない。だが、僕のラーメンで指導してもらいたくないな。こんな時間に昼飯を食べる人は、腹が減っているのだ。一刻も早く食べたいのだ。だから、さっきの券売機での一件にも腹を立てずに辛抱しているのだ。だって、食券を出してから作り始めるよりも、ボタンを押した時点で作り始めた方がいち早くラーメンを提供できるというのが、客にプレッシャーを与えながらも注文を決めようとするお客のすぐ横でボタンを盗み見ている理由だろうと思ったからだ。それなのに、僕の注文でラーメン制作の指導をしている。それによって数秒であっても遅れてしまう。もしかすると味まで変化するかもしれない。ああ、もうこんなラーメン屋には二度と来ないぞ。僕は固い決意をしたのだった。

 早稲田通りはとにかくラーメン屋さんが多い激戦区だ。年間10軒程度オープンし、同じように10軒程度閉店する。今日のお店の3軒隣は去年の8月に閉店したままだし、真向かいにあったラーメン屋も1ヶ月前くらいに閉店して、今まさに内装の工事が行われている。道を挟んで30mくらいのところにあったつけ麺屋さんも閉店して工事が進んでいるし、その10m先のラーメン屋さんも以前そこにあったラーメン屋さんが閉店してすぐに別ラーメン屋さんがオープンし、半年後に閉店して現在内装工事中だし、大変な状態である。思うに、ラーメンがまずいのではないのだろうと思う。彼らのユーザビリティや状況適応能力が欠如して、それをなんとかマニュアルで補おうとするから、結局は個々のお客さんに不快な思いをさせてしまって、定着してもらうことが出来ずにいるのだろう。

 いや、もちろんすべてのお客さんに満足してもらうことなんて出来ない。どこかで割り切りも必要なのだが、しかし根本的なこととして、お客さんに満足するための決まり事ではなく、一つ一つの対応をどうすれば良いのかという現場での判断の際に、「お客さんが大事」ということを忘れずに考えているかということがあるかないかが、そういう対応の一つ一つに現れてくるのだろうし、店の命運を左右するのだろうと思う。

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 このところ新しいバンドマンたちとの出会いが多い。彼らと話をしていると、勇気がわいたり、がっかりしたりと、こちらも平坦ではいられなくなる。

 そんな中で思うのは、誰もが不安に駆られているということだ。不安に駆られた時にどういう態度に出るかというのが人それぞれで、不安をさらけ出す人と、不安なんてありませんといわんばかりの虚勢を張る人に大きく分かれるのが面白い。前に行くのかそれとも後ろに下がるのか、まさに希望と不安の間のせめぎ合いなのだが、どちらに行くにしても理由が必要になる。

 最近の例でいうと、先日こちらからの提案に対して最終的にNOを返してきたバンドがいた。まあ具体的な提案がどうだったかは触れないが、彼らの理由として、「勉強するためにも、今回は自主でやってみることにします」ということが挙げられていた。もちろんそれも一つの決断だ。勉強するならそれもいいだろう。しかし、以前にも自主でリリースをしていて、そしてまた同じことをやろうとしているのである。年齢の問題もあるし、一体いつまで同じ内容の勉強をしようというのだろうか。契約をしたことによって得られるものもあるわけで、それを知ることなく以前と同じことを勉強していくことに大きな意味があるとは思えないのだけれど、まあそれも彼らの選択なので仕方がない。問題は、再び自主をやることによって本当に得るものが大きいのだという積極的な理由からそういう結論に至ったのか、それともキラキラレコードとやることによって失うものがあるんじゃないかという、それを避けようとする消極的な理由が大きかったのかということだろう。当然だがキラキラレコードもボランティアでやっているわけではないので、それなりの条件を提示することになる。それが耐えられないリスクだったり負担だと感じたのかもしれない。だとすれば、もったいないことだなと思う。何もしなければ事態は打開されていかないのだし、打開されなければいつまでも今のままでしかないのだから。

 別のケースで、やはり提案を受け入れ、リリースに至ったケース。契約終了後に今後の展開についてのひとつのアイディアを提示した。そのアイディアが意味することが最初あまりピンとこなかったらしくて、「それをやる意味が本当にあるのか」「結果は出るのか」など、不安ばかりを口にしていた。なので、とりあえず騙されたと思ってトライしてみて、それでダメだったらやめればいいし、別のやり方を考えてみればいいじゃないかといって、具体的にどうすればいいのかという手順も細かく伝えて、トライしてもらった。そうすると初動としては十二分の結果につながり、彼としても手応えを感じ、アイディアを教えてくれてありがとうという感じの感謝の言葉を返してくれた。やるまでは、懐疑的だったのである。だけど目をつぶってやってみることで、新たなフィールドに立つことが出来た。もちろんそれがゴールなどではないし、運用の仕方もこれから洗練されていく必要があるだろう。しかしながら、トライしたことが結果につながるということは素晴らしいことだと思うし、そうやって最初懐疑的だったミュージシャンが意を決して前進してみたということが、音楽の質とか活動の量とか、そういったものとは関係なく、どんなミュージシャンにとっても大切なことなのではないだろうか。

 もちろん僕のアイディアが絶対唯一ということではない。他にもいろいろな方法論が世の中にはあるだろう。だからそれらの中から何を選択するかということなのである。だから他のものを選んで、キラキラレコードを却下するというのももちろんアリだ。だけど表面的に別のものを選んだようであっても、それが実質的にはキラキラレコードのやり方から逃げただけだったとしたら、それは成功につながるものではなく、失敗する第一歩になってしまうのだろう。出会ったミュージシャンたちがそうならなくて済むように、出来るだけ言葉と心を尽くして説明している日々なのだが、伝わる場合と、伝わらない場合があることも、仕方のないことかもしれないと思ったりしている。

 また別のケースでは、やはりあるミュージシャンがやって来て、僕が彼に向かって「キラキラレコードが何をしようとしているのか」みたいなことをいろいろと説明しようとしてもなんかその反応が薄いことがあった。どうなんだろう、やる気があまりないんだろうか、単に音楽業界の人と会ってみたかっただけなんだろうかとか、不安はよぎる。だが、もう少し話をしてみると、どうやら彼にはそういう説明そのものが不要だったのだ。数度のメールのやり取りと、キラキラレコードのサイトでの情報、そして先日送った資料などを見た段階で、気持ちは固まっていたのである。今更「キラキラレコードとは」みたいなことの説明を受けるまでもなく、具体的に契約に向けて段階を進めたいということだったのである。いつもは2時間とかミーティングをすることも珍しくないのに、その時はせいぜい40分程度だっただろうか。しかも半分くらいは雑談のような内容だった。手がかからない。それは事実だろう。だが、だからといって僕らが楽をしたいわけではなくて、余計な説明などに時間をかけるのはもったいないという気持ちがあって、だから、そういう回り道ではなく直線距離で動けるということについては、僕は彼らを高く評価したいし、余った時間は、もっと別のことで彼らのためになることに費やしていきたいとか思ったのだった。