Sunday, May 26, 2013

友人

 土曜の夜、旧い友人と京都のビアガーデンで会った。

 親族の結婚式で京都に来たとのこと。今日は泊まって明日親戚周りなどして帰るとのこと。彼の上洛を僕は今日の昼過ぎに知った。facebookで彼が叡山電車に乗って比叡山に向かうという写真をアップしていたからだ。反射的に「僕の家のすぐ近くだ、叡山電車は僕の通勤の足だよ」とコメントをした。するとすぐさま彼からDMが。今日の夜共通の友人と会う予定にしているから、大島もどうですかと。

 旧い友人といいながらも、高校を卒業して以来30年の中で、彼とは1度しか会っていない。友人なのか、友人ではないのか。それを明確に言うのはとても難しいことだ。facebookはそういう旧い友人を再び結びつけている。否が応でもそうなる仕組みだ。高校の同級生、大学の同級生。芋蔓式に友人になる。中にはこいつ友達だっけというような同級生もいて、どんどん友人申請が来て、つながっていく。

 facebookに登録した人の行動パターンはいくつかに分類出来る。登録したけど一切見ていない人。登録して見ているけれど、投稿しない人。登録して、投稿はしないけど友人の投稿にイイねやコメントをする人。登録してバンバン投稿する人。高校の同級生は50人くらいがfacebookでつながっているけれども、投稿をきちんとしているのはそのうち10人前後だと思われる。残りは見てもいないし、見てても何も反応してくれない。僕のように投稿する人だけが舞台の登場人物であり、反応しない人は暗い観客席を埋めているだけだ。

 今日会った旧友は、どちらかというと投稿をするパターン。だから僕も彼とはこの30年間で1度しか会っていないのに、彼のことはよく知っている気になっている。おそらく僕のことを良く知っている気になっている旧友も多いのだろう。まあそれはいい。人それぞれだし、どういう関わり方をするというのに優劣などないのだ。

 2年前に京都に来た時、僕ら夫婦はこの地に友人などなく、いわば孤立無援の場所で生活をリスタートさせた。でも、それが特別寂しいとかいう気分にはならなかった。それはSNSの力が大きかったと思う。東京にいてもそんなに友人と会ったりはしていなかった。それでもSNS上のやり取りで、彼らの行動についてもある程度知っているような気になったし、住む距離が離れたところで状況はまったく変わらなかったのだ。

 しかし面白いもので、京都にいると滅多に会えない相手と思ってくれるのか、東京にいた頃よりも友人に会う機会は増えている。わざわざ訪ねてきてくれるのだ。面白いと言ったらバチが当たるな。嬉しいことだ。

 7月には大学時代の友人が3人訪ねてきてくれる。大人の修学旅行と題した企画に乗ってくれて、わざわざ京都に旅しにきてくれるのだ。みんなで京都観光をする予定。そのうち1人は実に22年ぶりの再会である。それは友人なのか?明確なことを言える自信はまったく無いが、それは当然友人だ。確実に友人だ。友人でもない人がわざわざ交通費を使って会いに来てくれるはずがないじゃないか。

 その時にどこを巡ろうか。今から策を思いめぐらせている。一応希望は聞いた。それをただ実現するプランがいいのか。それとも希望で挙った場所はすべてパスして、あっと驚く京都体験をしてもらうのがいいのか。まあ、僕に驚く京都体験のプランを作ることが出来るのかどうかはとりあえず置いといて…。

 そういうことを考えることが実に楽しい。でも本当はプランだとかどこに行くとかではなくて、旧い知己と会うひと時が楽しいんだろうと思う。僕ら4人の記憶には、どこに行ったではなくて、誰と一緒に時を過ごしたかだけが残るのだろうと思う。

 今日会った高校時代の友人と話していて、facebookでの人間関係についても意見を交わした。同級生は450人いて、そのすべてと知り合いではない。顔も名前も思い出さない相手もいるし、名前は知ってるけど当時でさえ話したこともない相手もいる。そういう相手が僕のことをどう思っているのだろうか。もしかしたら僕だけが知っていて、そいつは僕のことを「誰?」という認識でしかないのではないか。だとしたらフレンド申請をした自分が完全にピエロである。ましてやそいつが「誰?」と思っている僕のことを無碍にするのもどうかというだけの理由で申請を受理したら、ピエロ以下である。

 今日の出会いについても、その友人は僕との距離感をはかりかねていたらしい。僕が京都にいることは知っていて、でもだからといって気軽に呼びつけるほどの相手ではないのではないかと思っていたらしい。だが、呼びつけなくてもいいや、会わなくたって別に構わないということではなかったらしいのだ。だから今日の彼の投稿に対して僕がコメントを寄せたのを見て、これは呼ぶしかないと決めてDMを送ってきてくれたのだと。こういうのが結構嬉しい。再会する時にお互いの温度がどのくらい近いのかということは非常に重要なことだと思う。仲が良い人同士でも、そのテンションが微妙にズレていることがあって、そういう中で会ったりするとお互いにちょっとずつストレスを溜め込むことになる。だがそのテンションがほぼ同じであれば、ストレスが溜まることはほとんど無い。それはローテンション同士であってもいいのだ。なぜなら、ローテンション同士ならお互いの間合いを計り合いながら、ちょっとずつ互いの領域に入り込んでいくからである。

 今日の再会は、そんな感じだったと思う。昔話をしていく中でお互いの距離感をちょっとずつ詰めていくことが出来た。今夜のことがなければ、次の機会に彼と会うことがあってもスムーズに会話をはじめることは出来なかっただろう。でも、既に竹馬の友的な間柄になれた気がする。facebookは忌々しい部分も確かにある。でも、今回のような再会の導入になる可能性を秘めていることは確かだと思う。たとえその他多数の人との再会はかなわなかったとしても、この1例だけでも幸せな再会を果たすことが出来るのなら、効能としては十二分である。