Wednesday, May 29, 2013

家族単位主義

 昨日のニュースで「女性手帳の配布が見送られた」といっていた。まああのバッシングだったから当然だとは思うが、担当大臣の森まさこ氏が「最初から提言の中にはなかったんですよ。誤解です」としゃあしゃあと話していたのには呆れた。

 ま、それはともかく。

 人間世界にはいろいろな主義がある。民主主義、社会主義、共産主義、資本主義、その他いろいろだ。よく民主主義と社会主義が対立する主義だと言われているが、それはどうも違うと僕は思っている。それぞれの主義がそれぞれ勝手なことを言っていて、それぞれが対立するポイントもあるし、重なるポイントもあるというだけのこと。で、アナタは何主義と聞かれることもないわけじゃないが、そういう時は答えに困る。本当にこうあるべきという理想なんて無いというのが僕の主義だからだ。

 物事には極端というものがあって、いろいろな主義が目指しているところはその極端の世界である。理想を突き詰めると、結局その理想に反するものを排除しなければならなくなる。まずは排除しやすいところから。そしてだんだん理想を極めていって、最後には純粋にその理想に当てはまっているもの以外はすべて排除しなければならなくなってしまう。僕はそういうのがとても怖いと思う。911のテロを起こしたのはイスラム原理主義の人たちだと言われているが、原理主義というのはある意味純化理想主義ともいうもので、それはどんな主義主張の中にも起こり得る。民主主義を極める為には純化していく必要があるし、社会主義だって極める為には純化していくことになる。その過程で粛正が行なわれる。権力を持った主義が純化を行なう時には粛正であり、権力を持たない主義が純化を行なうとテロになる。テロは良くない。権力による粛正はさらに良くない。だから「何主義ですか」と聞かれても、答えに躊躇してしまうのである。

 基本的には資本主義が素晴らしいと思う。人の欲求が世界を推進していく力になるからだ。すべての人が待遇の平等にという共産主義では人はエネルギーを発揮しないと思う。だから、資本主義でギラギラとした意識で働くということは決して否定されるべきではない。だが、それも程度問題だ。今の世の中はそれがかなり行き過ぎた社会だと感じている。だとすればこのまま資本主義礼賛で突き進むのは危険だと思う。何事もバランスで、社会のベクトルが過度の資本主義に向かっているなら、あえて共産主義や社会主義のことを肯定することも正しいと思うのだ。それは共産主義が目指す究極の状況を肯定するということではなく、その主義の中にもある良い部分を取り入れて、現在の資本主義の行き過ぎにブレーキをかけるということ。バランスを欠くとうまくいかない。多くの人たちの不満が爆発するだけである。政治や政党はその舵取りをすることが本質的に出来ない。だから選挙という仕組みの中で人々がどうバランスを取っていくのかということが求められる。民主主義とはそういうものなんじゃないかと思う。


 昔シムシティというゲームをやったとき、スタジアムを建設しないと市民から不満が沸き起こるというのがあった(エネルギーのために原発を建設しろというのもあった。当時はそれがすぐにメルトダウンして町の一部を放棄しなければいけなかったのだが、最近のシムシティではメルトダウンは起こらないらしい。あまりにリアルすぎてゲームといえどもシャレにならないだろうからなあ)。資本主義とは資本の偏りを生むものである。稼げる人が稼いで、搾取される人が搾取される。だがどんな人でも人間だ。搾取されているとわかれば怒りもするし、怒りが高まれば暴動も革命も起こる。だから優れた為政者はシムシティでいうスタジアム建設などをして人々を満足させようとする。その建設費だって搾取したお金なのだが。ゲームだとスタジアム建設をすればいいが、本当の政治はそう簡単ではない。様々な政策を駆使して国民に「僕らは幸せだ」と感じさせる。幸せである必要はない。幸せだと感じさせることが出来ればいいのだ。

 自民党の55年体制は、高度成長期という背景もあって、人々は概して満足な生活を送った。所得が増える。資産が増える。それによって豊かな暮らしが出来る。だがその時代は終わった。発展途上国や未発展国が高度成長をするわけであって、高度成長をして先進国になってしまったら、資源開発をするのか、さもなくば途上国の成長から搾取をする以外に道は無い。

 今の安倍政権は、55年体制が崩れて下野し、また復活して再度下野し、与党返り咲きは2度目である。この政権がやろうとしているのは資本主義である。資本主義は富が偏在することが不可避である。でもそれが行き過ぎると格差が極まり、経済的に下位にある人たちは食うにも困窮する。それを困窮させては社会は破綻する。だから富の再分配を行なうことが国家の大きな役割となってくる。

 資本主義は民主主義と同時に成立することもあるし、非民主的な独裁と同時に成立することもある。日本は一応民主主義国家だ。であれば、誰もが公平に生きる権利がある。公平というのは機会の公平だ。待遇の公平を求めたらそれは共産主義であり、資本主義と同時には成立しない。

 資本主義が民主主義国家の中で運営される以上は、生まれてきた人は基本的に同じ条件で競争することが可能でなければならない。だがこの国が現在行なっている政治はそれとは真逆に向かおうとしている。資本主義のルールによって稼いだ人は、その資産を守ろうとする。当然だ。だからそれを守りやすいルールにしようとする。家族は家族で共助すべきだという最近の流れはこれに基づくプロパガンダだと思う。教育が国家の資金で賄われず、親がすべて面倒を見るということになったとき、親の収入によって施される教育の質に差が生じる。持てる者はより高度な教育を選択することが出来るし、持てる者の子息同士のコネクションを作りやすくなる。それでも頑張って奨学金で学んだ者は、社会人となった時点で多額の借金を背負うことになる。一方持てる者の子息は当然マイナスを背負うこともなく、いろいろなチャレンジが可能になる。持てる者の家庭がその資産を守りやすくなる条件はこうやって整備されていく。

 生活保護の問題もそうだ。言われているように不正受給という問題は確かにあるだろう。だが、それをさせないようにルールを厳しくすることで、立ち直ることを許されない人間が出てくる。今回の生活保護法改正案では三親等の家族にまで扶養義務があるということになったそうだ。そうなると自分の三親等に生活困窮者がいたらその時点でマイナスを背負わなければならなくなってしまう。資本主義の中で持てない者が1人でもいると自由な活動に制限を受けることになる。それが機会の平等なのだろうか。

 家族の問題は家族が背負う。これは基本的には当然だと思う。だが、それを国家が言い出すと話が違ってくる。なぜそれを義務として国家に言われなければならないのか。国家は国民の幸せを実現する義務があるのではないか。家族が家族を思うのと同じように、国家も国民1人1人の幸せを考える義務があるのだ。しかも現在の国家を担っている人たちはなんなんだ。自民党などはほとんどが世襲である。特権階級を世襲によって維持しようとしてきた連中である。その人たちが自らの家族を手厚く守って、そして他人である生活困窮者には厳しく当たろうとする。そんな考えしか持てないのなら、国家の仕事をする資格などない。国家の重責を担うというのは、国民すべてを幸せにしていくために汗も血も流す覚悟が必要なのに、そんな考えは毛頭ないとしか感じられない。

 女性手帳の話もそうだ。30代後半になると妊娠出産は難しくなってくる。だからそのことを意識して若い頃から考えておくことは必要だと思う。だが、それを国家が言い出すから話が違ってくるのだ。国民がそれぞれの価値観を持って生きている。その中には結婚や出産についての考え方も当然入る。自分の人生設計をどうするのか。結婚するという生き方もあるし、生涯独身という生き方もある。どちらがいいのかはその人次第だ。民主主義はそれを担保しているはずで、国家がそこに介入してくるのは価値観の押し付けでもある。妊娠がわかった女性に母子手帳を交付するのとは根本的に意味が違う。

 結婚して子供を作るということも価値観によるし、子供が出来た時に両親としての男女がそこにどう関わっていくのかも価値観によってくる。僕自身は育児に積極的に参加することが楽しいし嬉しいし、だからそういう暮らしを実践している。だがそうではない人も沢山いて、そういう人の生き方を否定する権利も資格も僕にはありはしない。当然、国家にも国民1人1人の生き方考え方を肯定したり否定したりする資格など無い。

 なんか話がグダグダになった。そろそろ(無理矢理にでも)まとめたい。

 僕は今の政府がやろうとしていることは家族単位主義だと思っている。高度成長が終わり、国際社会の中で先進国だけが高い所得を維持することが出来なくなってくるのは自明だ。だとすると、国内での格差を容認し、持たざる者を固定化することによってしか、持てる者がその立場や資産を固定することは難しくなる。だから、国家がセーフティーネットをもって持たざる者を救うのではなく、持たざる者とその親族が持たざる状態から脱却出来ないようにすることで、持てる者がその立場を維持することになる。それはある意味仕方の無いことかもしれない。だがそれを「持ってる者が持ち続けて何が悪い」と開き直るのではなく、「家族愛は素晴らしい。家族は家族が助け支え合うべき」と言ったりすることによって実現されようとしているのがとても気持ち悪いのである。原発事故の時に電力会社が多数の議員を国会に送り込んでいたことが明白になった。それは自らの利益を護る為の戦略である。多くの世襲議員が子供を国会に送り込むのもそれと同じこと。国会議員の収入が魅力なのではなく、そうすることで日本のルールを自分たちに得な方向に持っていくためなのだろう。

 家族は大切だ。僕は家族を愛している。そのことは素晴らしいことだと思うし、誇りにさえ思う。だが、それは国家によって強制されていることではなく、自分が自分の矜持として哲学として持っている個人的な考えと行動に過ぎない。それをゴッチャにして家族単位主義が国家によって強制されるとき、日本が誇るべき民主主義はジワジワと崩れていくのだと僕は思う。