Monday, June 03, 2013

TIMBUKTU

 ポールオースターのTIMBUKTUを読了。



 ポールオースターは大好きな作家。8年ほど前にOracle Nightを読んで以来、ずっとファンだ。ファンなのに8年かけて全部読めてはいない。たいした能力も無いのに洋書で読んだりしているからだ。辞書を引きながら読む。とにかく時間がかかる。しかし読み続けているうちになんとか読み終わったりするし、英語に対するアレルギーみたいなものは感じなくなった。今僕がfacebookで多くの外国の方々と英語ベースで交流をすることが出来ているのもこの洋書の読書が大きなベースになっていると思う。

 それに洋書には洋書の利点がある。ペーパーバックは1000円程度。翻訳物だと上下巻で各1500円なんて普通なので、値段は約1/3。それに翻訳が出ていない作品もたくさんある。ポールオースターのように現代の作家で、今でも毎年のように作品を発表する人の作品は、4~5年遅れで翻訳されるのを待つか、洋書で読むかのどちらかになる。ある種の究極の選択ではあるけれど、苦労して読むだけの価値は十分にあると思っている。

 さて、今回読んだTIMBUKTUだが、表紙にも犬の写真が使われているが、この小説の主人公は犬である。ミスターボーンズという名の犬が経験していく冒険譚。いや冒険というのは自ら望んでそこに足を踏み入れるわけで、この話はちょっと違う。冒険というより成り行きの出来事の連続というか、まあそんな展開のストーリー。出来事をひとつひとつ追っていくというよりも、その出来事の中で犬が考えていることを中心に語られていく。具体的な内容はあまり言ってはいけないと思うし、amazonの解説に書いてあることは「ふーんそうだったの」というくらいにしか思えないことでしかないし、だから僕が詳しく思ったことを書いたところで誤解を生む以外にないと思うわけなので、ここでは当然のことながら書かない。でもそれでは「読了しました」という報告に終わってしまうので、感じたことをなるべく内容に触れないような感じで書いてみたい。それも邪魔だという人は、どうぞこの辺で読むのをやめてください。

 犬の視点で書かれているものの、僕には人間の一生も同じようなものだという気分になりながら読んでいた。amazonの説明によると「犬の視点を通してアメリカのホームレスを描いた作品」なのだそうだ。そんなことはまったく思いもよらなかったが、まあいわれてみると確かにそうかもと思う。ではホームレスとそうではない人の境目とは一体なんなんだろうか。それが僕にはよく判らない。家が有るか無いか?そんなことで問題は解決なのだろうか。超豪邸に住んでいる人からすれば、僕などの住む賃貸マンションなどは家が有ると認定するレベルには無いのかもしれないし。ホームレスにも家はある。毎日通る鴨川の橋の下にはブルーシートの家が有る。時々その中からラジオの音が聴こえてきたりする。ブルーシートにつながれた犬もいる。その犬は青い家の住人のペットなのだろう。それはホームレスと呼ぶべきなのか?僕にはよく判らない。

 自分の行動パターンも、一般的な会社員からはほど遠い。出勤の定時もない。川沿いを歩いて通勤して、気分次第で回り道をしても怒られるわけでもない。給料を固定でもらっているという認識も無い。特に最近の不況の影響なのか、給料をまともにもらえないこともしばしばだ。もらうといっても、それは自分で決める話なのだから、もらっているという観念すらない。そういう生き方は、人間の生き方なのか。ホームレスとそれ以外を分ける明確な線が有ったとして、僕はどっちの人間なのだろうか。もちろん一応家はある。賃貸だけれども住所はある。だからホームレスではないのかもしれない。だがいつホームレスになるかもしれないという怖れは無いわけではない。今のように安定が無くなってきた時代には、そういう恐怖感を一切感じないという人も少ないのではないか。同僚がリストラに遭ったりしたら、自分もそのうちにという気持ちが必ず芽生える。芽生えなかったとしたら相当に抜けているか、相当の自信家ということだろう。普通の人は明日自分がどうなったとしても不思議は無いと思うはずだ。

 小説の中の犬はいろいろな状況に身を置くハメになり、その度毎につらい思いを経験する。だが完全に絶望的なつらい思いではなく、一部ハートウォーミングな思いも経験する。完全な絶望も完全な喜びも無く、日々は過ぎていく。そのバランスをどこで取るのか。それは僕らの生活も同じことだと思う。ちょっと絶望に近いところでバランスを取ると景色は暗くなるのだろうし、喜びに近いところでバランスを取ると明るく見えるのだと思う。同じ状態でも支点の置き方で見え方が変わってくるのだとすれば、明るく見えるようにした方がいい。主人公のミスターボーンズは支点をどう置くかということではなく、力点を置く場所をついつい選んでしまう。ちょっとした喜びにすがるように行動を決めるため、結局は絶望的状況の中に封じ込められてしまったりする。絶望的状況はさらなる状況の悪化を生む。やがて力点を置くのではだめなのだと気付くのか、希望の中に身を置くことから距離を置き始める。でもそれは必ずしも幸せなことにつながらない。

 僕はこの犬の話を読んで、感情移入をしたのだろうか。amazonの説明にあるように、ポールオースター自身がホームレスを犬の視点で描いたのだとすれば、直接的な感情移入を避けるという効用を狙っていたのではないだろうか。それとも身近な飼い犬というオブラートで包むことで最初からの嫌悪を取り除いて感情移入しやすくしているのだろうか。どっちとも考えられる。だが、結局僕はこの犬に感情移入した。嬉しい出来事が起きれば僕も嬉しくなったし、つらい出来事が起きればハラハラしてドキドキした。その辺がポールオースターのストーリーテラーとして優れたところなのだろう。アメリカの現代作家には、ものすごく難解な「文学」を書く人もいるし、逆に徹底的なエンターテイメントやミステリーを書く人もいる。そういう中でポールオースターは、現代のテンポラリーアート的な立ち位置の小説を得意としながらも、完全に「文学」という結果にはならず、物語としても面白く、同時に単純ではないという、極めてバランスのとれた作品を書き続けている。このTIMBUKTUは、そんな彼の中でも特に読みやすい、大衆娯楽小説に近い作品だったと思う。難しい小説だと同時並行的に複数のストーリーが展開していく。そのすべてが個性の強い設定と登場人物によって展開するので、読んでいて自分がどこにいるのかわからなくなってしまう。だがこのTIMBUKTUでは基本的に平行して進むお話はない。主人公ミスターボーンズの視点で見えるものだけを書いている。だからわかり易い。

 もしポールオースターに興味を持ったなら、最初に読むにはちょうどいい作品だともいえるだろう。もちろん洋書で読む必要などまったく無いです。