Thursday, December 25, 2008

不器用な男たち

 今朝のラジかるッはいつもと違う雰囲気でスタートした。飯島愛の死亡についてヒデちゃんが何も語らないわけにもいかないだろうし、どんなことをどんな表情で言うのか、ほぼ毎日この番組を見ている僕としてはちょっとした興味があった。飯島愛についてはさほどの感慨もないが、それを取り巻くいろいろな人たちの感想にはとても興味があるのだ。
 
 そして様々な人が昨日からコメントを出していた。文章のみのコメントが出る人も、カメラの前に敢えて立つ人も、そして自分の番組でなにか言わなきゃいけない立場だから言っている人。芸能界に数年いれば飯島愛と面識がないという人も少なかろう。その関係性の大小はともかく、なにか言えといわれれば1つ2つのエピソードくらい語れるはずだ。で、メディアもなにをか言わせようとマイクを向けるから、誰もがなにをか語るのだ。誰とは言わないまでも、この機にカメラの前に立とうとする人にはなんか退く。朝のワイドショーでいろいろ言う人たちの言葉にも、ちょっと退く。誰もが飯島愛を美化するからだ。死者に鞭打っても得はしない。哀れみをかけた方が無難なのは間違いない。気持ちとしても悼む気持ちがあると、どうしてもそういうコメントを発するだろう。それは特に売名とか好感度とかを意識せずともそうなって当然で、それが理由で退かれても困ると言うだろうし、僕もそう思うのだ。
 
 だが、やはり一面でその哀悼の辞が胡散臭く思えてしまうのも事実である。断っておくが、僕は飯島愛についてなんの感慨もないし、死んだからといって喜びも悲しみも特にはない。ああ、そうなんだというだけのことだ。でもここからいろいろなことを知ることが出来るとは思っている。不幸の時に周囲はどう振る舞うのかということだ。そしてそれはともかくも、自分が不幸なときに周囲はどういう振る舞いをするのかということを推し量ることが出来るし、そして周囲の不幸なときに自分はどうあるべきなのかということを考えることが出来る。別に処世術として如才ない振る舞いを学ぶということではない。所詮遠くの人に対してまで親身に行動できるほどの人間ではないことはわかっている。しかし人としてどう生きるべきかということ、そして自分にとって本当に大切な人たちに対してどういう人間でありたいのかということについて考えることは、自分が人間として成長することにつながるのではないかと思うのである。
 
 で、ヒデちゃん。沈痛な面持ちで飯島愛との思い出を語っていた。その死を受け止められないような感じだった。死因はまだハッキリしていないながらも、自殺なんかをするような人ではないと断言していた。その上で「バカだよって言いたい」と言っていた。自殺をしたのならバカだと言っていいだろう。でも、自殺をしているはずがないと彼自身断言していて、それなのにバカだと言うのである。最初、それは矛盾しているだろうと思った。文章で見ただけなら、その発言に論理性も一貫性も無いなと思うだろうが、テレビの生放送で語る姿を見て、きっと前日からこの瞬間が来ることを理解していて、なんと言えばいいのかをシミュレーションしていたはずなのに、結局うまくまとまらなかったんだなというのが伝わってきたし、だからたとえ論理矛盾だったとしてもそれがヒデちゃんの偽らざる感情だったんだなと思った。つまり、理由はどうあれ、こんなに早く死んでしまった友人に対してバカだと憤りたかったのだろうし、そんな友人の境遇に気付くこともなかった自分に対してもバカだと憤っていたのではないだろうか。
 
 一生懸命に言葉を紡いでいるヒデちゃんの横で合いの手を入れるように言葉を連射していた木村祐一が道化に見えた。同等の思い出や感情がないのなら黙っていればいいのに。もしも自分の思い出がヒデちゃんと同等だと思っているのだとしたら、それこそ空気が読めない人でしかないだろう。
 
 
 すっかり飯島愛のニュースに追いやられてしまったが、渡辺善美の造反もちょっとだけ面白いニュースだと思った。頑張ったなと思う。まあそう簡単に出来ることではない。小沢一郎たちが大挙して造反した時と違い、まだまだ渡辺善美は同士も策も足りていなかったのだろう。足りていないのにやってしまうところが、彼のまだまだ不器用なところだ。だけど居ても立ってもいられず、やむない行動だったのだろう。彼はこれから同志を集めていく、その核になるべく旗幟鮮明にしようとして、そのために1人造反したのだろう。だから、まだ自ら離党しないわけで、鮮明にした旗の下、「この旗に集まれ」というのがこれから数日の彼の行動になるはずだが、それもそう簡単な話ではない。自分の選挙区のことを考えると、後援会とか派閥の長なんかにも縛られているのが実態だし、大政治家だった親父さんのしっかりとした地盤という背景を持っていて、なおかつ国の未来のためにすべてを投げ打っていいと決断できる人はそうはいないだろう。そしてここが大切なところだが、じゃあ離党してどうなるのかというと、小規模政党を旗揚げするか、国民新党などの弱小政党に入れてもらうか、さもなくば民主党に合流するかしかない。田中真紀子のように無所属で会派として民主党と組むという方法も無くはないが、それでは政策実現は遠い話だし、そういう無力のまま選挙に勝ち続けられるような政治家はごく僅かである。だとしたら、渡辺さんは自分1人で無所属立候補を選ぶか、僅かでも同志を集めて政党を作るか民主党などの既存政党に合流するかしかない。さもなくば、造反はしたものの自民党に残って日陰者として時期を待つかである。10年以上前の自民離党者たちがその後どうなったのか、数年前の自民除名者たちがその後どうなったのか、そしてこのまま自民で政党人として動いた場合にどのような未来図を描き想像できるのか、そういったことを考えると、行くも地獄、戻るも地獄という感が否めない。
 
 それでもやらざるを得なかったのだろう。きれいな絵を描ける筆も絵の具も持たず、だけれども描かずにはいられなかったのだろう。筆も絵の具も持っているのに、いい紙がないといって動こうとしない中川秀直などと較べればよほど不器用で、そしてよほど共感を持てると思う。数日前のブログにはボンボンの限界とか書いたし、その評価は今もさほど変わっていないのだが、でもこの数日で多少成長したんじゃないかなと思う。不器用だと思われても思う道を進むということ。そしてその思う道というのは本当に思っている道であることを自分なりに確認した上での道であるということ。そういったことが前提となってさえいれば、それが時にドンキホーテ的であったとしても、いやそれだからこそ爽快に映ることだったり人だったりするのではないかと思う。
 
 
 そういう渡辺善美の行動に対して、民主党議員たちが満面の笑みで歓迎している映像も映ったりする。だがこれがまた底の浅い感じを露呈してしまっていると残念でならない。党首の小沢一郎は「もし離党したのならば話をする可能性もあるが、離党もしていないのにその言動を評価など出来ない」ということを繰り返しているというのに。
 
 まあ小沢一郎の言っていることには原則論はあってもスピード感がないという批判もあるだろうことはよくわかる。だから10年以上も彼の理想を実現するのにかかって、今なおそれは継続中だったりするのだと思う。いろいろと失敗をして、理想論だけでは物事は進まないということも学んで、自民党の中では若くして絶大な力を握って、自分が決めれば日本が動くと思っていた感もあっただろうが、それは間違いだったということにも気付いただろう。だから彼なりの根回しも、実験も行ってきた。それは端から見れば変節とか、論理矛盾とかいう批判もあったと思う。だが、彼はそうした終始一貫の不器用なまでの原則論男なのであり、だから幾多の批判に曝されようとも、今なお根強い支持者たちに支えられ、国の在り方を託されようとしているのだと思う。そういう不器用さからすれば、まだ自民にいる人たちの言葉に迎合するかのような浮薄な行動は取れないのだ。取れないのだし、取らずにその姿勢を変えずにしばらくいて欲しいと思う。いや、それはもし離党したときの渡辺善美のハシゴを外すようなことをする可能性があるということではなく、目的のためならば社会党とも手を組んだという過去の経験から、そしてあまりの原則論だけでそれを突っぱねては損をするという痛手の経験から、彼がやろうとすることは火を見るより明らかではあるけれども、今は原則論的な立て前を口にするしかないのだし、彼の骨の中には、日々歩いて息をするかのように、そういう自然な論理が口に出ているのだと、僕は思うのである。