Wednesday, January 21, 2009

オバマさんの演説はそれほどイケてなかったと思う


 就任演説を見る。見なきゃいかんだろうと思っていた。だが、期待ほどに胸を打つ内容ではなかったと思う。明らかに勝利宣言の方が感動的だった。いろいろと理由はあるだろう。同時通訳もあまり上手くなかった。それよりなにより、NHKの中継はオバマ自身の声をあまりにも小さくし、同時通訳のみをドーンと前面に出していた。もっと声を直接聞きたいと思ったし、世界で今行われている歴史的な出来事に接したいから生中継を見たのに、通訳の声にかき消された。もちろん通訳を介した方が意味はわかりやすい。聴いてすぐ判るほどの英語力は持ち合わせていない。だけどそれでも、演説を同時刻に見たいと思ったりして、夜遅く(それほどでもないけれど)までテレビ中継を待っていたのだった。
 
 だがやっぱり一番大きな要因は、僕らは既に慣れていたということなのだろう。当選が決まってから随分と時間が経過している。その間に僕らはその事実に慣れてしまっている。慣れというのは怖い。その瞬間にはまさかと思ったことも、いつともしれずに当たり前のことになる。

 アメリカ史上初の黒人大統領というと、それはたしかに大きな出来事だ。だが、911の時に飛行機がビルに突っ込んでいった衝撃映像とどちらがといわれれば、それほど驚く出来事ではない。ワシントンの広場(広場というにはあまりにも広すぎるが)を埋めつくしていた200万人(ここだけで200万人ではないと思うが)の映像もすごいなと思ったが、それも既にどこかで見たことのある映像だった。そういう意味でも、なにか本当に大きなことなんだろうかという、どこかに疑問を持ちながら見ていた。
 
 演説の中身を較べてみた。そして僕なりに判ったことは、勝利演説と就任演説との間には、その内容に於いて決定的な違いがあったのだ。それは勝利演説の時には、黒人がここまで地位を向上させたのだということについての言及が強く、何かを達成したのだなという感慨を与えていた。それに較べると、就任演説では視点は黒人というものを特に大きく取り上げることなく、すべての人種、すべての宗教的背景などの違いを超え、トータルアメリカ合衆国というものを代表する人の宣言としての色合いが濃くなっていたのである。
 
 これを端的に言うと、前者は「現在が到達点で、そこに至るサクセスの結果解説」であり、後者は「現在からスタートする未来の展望宣言」なのである。当然そこにある「現在」というものの質は違う。前者の「現在」とは、黒人にとっての勝利を意味し、後者の「現在」とは、アメリカ合衆国が抱えている困難(経済的困窮であり、社会不安であり、国際政治及び地球環境での失政である)を意味している。
 
 その困難から脱却するために、みんな希望と意志を持とうと、オバマ氏は訴えた。その力は、現時点でオバマ氏にかけられている期待そのものだ。ワシントンに集まった200万人の熱気だ。だが一方でこれからの道が楽なものでは決してないということもみんなが知っている。だから、「希望を持とう、やり抜こう」といわれても、それが単なるスローガンに終わってしまうだろうという不安も消え去らない。人間の行動は気分によって大きく左右される。だから誰かリーダーが鼓舞するような過剰な発言をするということは必要であり、不可欠なことである。しかし既に眼前に示された勝利という動かし難い事実と較べると、鼓舞された希望というものは不確かに過ぎるものであり、だからこそ、聴く者を激しく高揚させるような力は伝わらなかったのかもしれないと思う。
 
 たしかにこの演説はイケてなかった。だが、それこそが期待できる鍵なのではないかとか思う。なぜかというと、彼は既にチェンジしているということの証でもあったからである。選挙に勝ったという栄光はすでに過去のものとなり、視線の先には人種や宗教などの立場を超えた、オールアメリカ合衆国としての団結と幸福を目指そうとしていることがハッキリと判った。だからといって成功するという保証はない。が、保証された未来などは最初から存在しないのであり、誰もが「まさか」と思って疑わなかった黒人大統領というものをブレずに目指して実現させてしまった男になら、期待しても悪くないのではないかという、そんな気がしたのである。


就任演説(前半)


就任演説(後半)