Monday, January 19, 2009

『ペンギンの憂鬱』 by アンドレイ・クルコフ


 ウクライナ出身の作家アンドレイ・クルコフのベストセラー小説。サスペンス小説の要素を持ちながらも、焦点は主人公の内面に当てられる。起こる事件が時として思考を停止させ、対応に追われるが、やがて落ち着くと状況分析に意識は向かう。そして鬱々とした気持ちの時間の中で生活をしていくことになってしまうのである。
 
 これは、もしかしたら遠い国に住む僕らとも共通することであるかもしれない。自分ではどうしようもない出来事に囲まれて、どうしようもないのにどうすればいいのかとかを思い悩み、結局どうしようもないものだから、微妙にそこから逃避するのだ。逃避し続けた結果が、今の自分だということに、気付いたとしても気付かないふりをする。ふりをするというよりも、気付いていない自分を演じる。思い込む。思いこみに成功すれば、現状を受け止めなくてもいいのだから、誰か他人のせいにして生きていくことが出来る。それが人生の秘訣でもあるのだろうが、その人生に彩られる幸せというものの形は、どこか空虚で隙間風に満ちているものでしかない。
 
 ペンギンは何故主人公の元にいるのか。それはペンギン自身の選択ではない。同じように主人公の元にいる数人の登場人物がそこにいる理由も、100%その人の選択ではない。同じように主人公の人生も翻弄されて今があるのであり、決してその生き方は本意ではない。逃げられないだけなのだ。そして主人公をその状況に追いやっている人物もまた、理想的な安寧に囲まれているわけでは決してないのだ。
 
 喋らないペンギン。文筆を生業とする主人公。言葉を操っても操らなくても、そう大差はない。同じような存在である憂鬱な二人が、近くにいることでなんとなくの安寧のようなものを手に入れ、生存していくことができる。それもまた僕らと共通するところだ。ストーリーは淡々と進んでいく。事件は起こるが、それは列車の窓の外の景色のようなもので、そこを主人公は通過するものの、結局淡々と進んでいってしまうのである。事件の大きさに較べて感情の起伏は極めて少なく、じつはこの起伏の少なさこそが、憂鬱の根本なのであり、重大な問題であるように、僕は感じたのである。
 
 物語の終わりで、ある運命と主人公の絡み具合とすれ違い具合が面白い。まるで古典落語のさげのようだ。それをネタばらしするわけにはいかないところだが、面白さとしても十分だし、やはり人生とはそうなっていってしまうのかという感慨もまた生まれてきたりする。延々とした流転の繰り返しだし、逃避の結果掴んでしまった現実の中では最も重要なものは安寧ではなく、安寧のようなものでしかなかったのだなあ。僕の場合はどうなんだろうかとか、ちょっとだけ思う。